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【体験レポ】『乳房喪失』中城ふみ子をめぐる旅

 中城ふみ子、という人物をご存じでしょうか。

 大正に生まれ、31歳という若さで亡くなった歌人です。ずっと短歌を作り続けていた彼女を一躍歌壇の星にしたのは、乳ガンによる死に際して発行された『乳房喪失』という歌集でした。

 ふみ子と、彼女を見出した同い年の編集者・中井英夫氏の生誕から今年で100年。それを記念して、二人の往復書簡を中心とした展示が小樽文学館にて行われました。そのレポートをお伝えします。

壮絶な一生を駆け抜けた歌人・中城ふみ子

寺山修司と並ぶ、現代短歌の出発点

 中城ふみ子が歌壇でセンセーショナルなデビューを果たしたのは、1954年4月。日本短歌社の募った五十首応募に作品を送り、見事特選となったことがきっかけでした。

 この五十首応募は第二回で寺山修司が特選に輝き、彼はふみ子の歌に影響を受けたと言われています。こうしたいきさつで、ふみ子は寺山とともに現代短歌の出発点とも呼ばれているのです。

 ふみ子の短歌の特徴は、なんといっても演技性の高さによる強烈なインパクト。代表作をご覧になれば、きっとご納得頂けることでしょう。

愛憎の入り交じりたるわが膝を枕に何を想へるや夫

音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われてゐる

灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽の如くに今は狎らしつ

 当時の和歌は写生に重きを置き、素朴に生活を詠んだものが主流だったそうです。そこにこんなドラマチックなものが登場したら話題騒然になるのも頷けます。

 実際、五十首応募の審査員であった編集者の中井英夫は、停滞した歌壇に新しい風を呼び込もうという狙いからふみ子を特選にしたとも言われています。

 こうして劇的なデビューを飾ったふみ子でしたが、その衝撃は和歌によるものだけではありませんでした。彼女が乳がんに冒され余命幾ばくもないという状況が、拍車をかけたのです。

「遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ」

 彼女の生命を蝕んだ乳がんは、それまでの過酷な人生が祟って起こったもののようにも捉えられます。

 ふみ子は、恋多き女性でした。学生時代から思慕した「お兄様」がいたものの、親からは他に縁談を勧められ、一度は婚約。しかしそれを破棄したことで、周囲から腫物扱いされるようになります。

 当時の常識・倫理からかけ離れていたふみ子。その後、親に強いられるようにして結婚に漕ぎつけますが、夫とは折り合いが悪く、3人の子を授かりながらも――そして一度の流産を経験しながら――1950年に離婚。その前後から、様々な男性と交際していると噂が絶ちませんでした。

 そうした日々を、ふみ子は歌に詠み続けました。夫への愛憎、想い焦がれた君への挽歌、子らへの慈しみ、侘しい日々の情景……口さがなく自らを噂する周囲の人々へも、痛烈な視線を向けます。

アドルムの箱買ひ貯めて日々眠る夫の荒惨に近より難し

いくたりの胸に顕ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず
(※大森卓:ふみ子と同じ短歌会に所属していた青年歌人。肺結核のため短命に終わったものの、短歌へ命を賭けるようなその姿勢はふみ子に大きな影響を与えたとされる。彼には妻がいたが、ふみ子は強い恋情を隠すことはなかった)

悲しみの結実みのりの如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ

口つぐむ人らの前を抜けて来つ禁句の如きわが存在か

 離婚し、紆余曲折を経て故郷の北海道に戻ってきた彼女は、地元で歌人として活動し、徐々にその名が知られ始めます。しかしそこで、1952年に乳ガンが発覚。そこで諦めずラジオドラマの脚本を執筆するなど精力的に活動を続ける彼女を、無情にも再発が襲います。

 自らの寿命を悟った彼女は、どうしても歌集を遺していきたいと、実家の両親に自費出版の費用を工面してもらうように頼み込みました。代わりに、自身の葬式は要らないから――手紙には、そうキッパリ記されていました。

 その後、五十首応募特選の報が入ったのはふみ子にも思いがけないことでした。命のしずくを振り絞って紡ぎあげた歌集。そこにどれほどの想いが籠められていたかは、想像を絶しています。次の一句を見たとき、筆者は本当に何も言えなくなってしまいました。

遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ

 もっと、ふみ子のことが知りたい――その想いが募り、北海道・小樽文学館で開催された『中井英夫・中城ふみ子』展に行ってきました。

生誕100年を記念した『中井英夫・中城ふみ子』展とは

2022年12月~翌年1月まで小樽文学館で開催

小樽市イベント案内ページより(https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2022112300029/)

『中井英夫・中城ふみ子』展は、2022年12月から翌年1月末まで、小樽文学館で開催されました。

 もともと、筆者がふみ子のことを知ったのはネットでたまたま上記の告知を見たからです。

「なんなんだ、この途方もない関係性の重さは……?! これが、現実に取り交わされた書簡だってのか……??!」とそのエモさに思わず飛びついたわけですが、このやりとりがどういう文脈の中であったものなのか、調べていくたびに真剣な面持ちにならざるを得ませんでした。

 文章に携わる者の端くれとして、ふみ子のことをもっと知りたい。その一心で北海道へ飛びました。

現存する往復書簡――病床で綴られた手紙の、息呑ます迫力

生誕121年『小栗虫太郎』展も同時開催でした。
中井氏と小栗氏の直筆の字がなんかやたらかわいかった。
小樽文学館の物販コーナー。
当日はすごく……雪でした……。

 順番に展示を見ながら、たどり着いた二人の往復書簡――生々しい筆致や、便せんに施された「KOKUYO」のウォーターマークに、中井とふみ子は実際に生きて、何度も手紙をやり取りしたのだ、という実感が湧いてきました。

 現存が確認されている往復書簡の全文は、後述する平凡社版『[新編]中城ふみ子歌集』にも収録されています。活字化されているため内容を取るにはこちらの方が優れていますが、実物の書簡には息を呑むような凄みがありました。

 特にふみ子の手紙は、病床から書かれたものであり、鉛筆書きそのままのものがほとんどでした。彼女自身、清書できずに申し訳ない、と書いてあるものも。

 しかし、死に際してなんとしてでも自分の遺産を――歌集を遺したい、その一心が筆致の随所から伝わってくるようでした。そして、それ抜きにしても誰かに――とりわけ自身の理解者となってくれた中井に、手紙を書かずにはいられなかったのだ、とも感じました。

 対する中井の手紙も、ふみ子への想いに溢れています。特選を知らせて送り始めた当初こそ編集者として手厳しい文面もあったものの、ふみ子の病状がのっぴきならないものだと理解してからは、彼女を労り、励ます内容が増えていきます。

 特に、彼女が衰弱していくのを察知して綴った「死ぬこと、まかりならず」「明日から一枚ずつ(手紙を)書きます」という言葉から、どれほどふみ子のことを大切にしていたか――そしてふみ子がどれだけ力をもらったか――が伺えました。

 1954年7月20日の、中井にあてたふみ子の手紙にはこうありました。

  来て下さい。きつといらして下さい。
  その外のことなど 歌だちて何だつて
  ふみ子には必要でありません
  お会ひしたいのです。

平凡社版『[新編]中城ふみ子歌集』p.333
1954年7月20日 中井英夫宛中城ふみ子書簡(速達)

 ふみ子は北海道・帯広の病院。中井は東京の出版社勤め。いつか会いに行く、としながらも、中井はなかなかその機会を得ることができませんでした。しかし、いよいよ”そのとき”が近いと察したふみ子は、何としてでも来てほしいと懇願します。速達の手紙でした。

 中井は意を決して、ふみ子に会いに行きます。往復書簡を交わし続けた二人がようやく対面し……その後まもなく、ふみ子は他界しました。

 並々ならぬ絆で結ばれていた、ふみ子と中井。そこにあったのは、恋情の結びつきでしょうか?  

”女臭く男臭くない”愛により産声を上げた『乳房喪失』

 展示では、中井とふみ子それぞれの来歴とゆかりの品々が並べられ、メインである往復書簡の解像度をより高くしてくれました。その中で、筆者が一際注目したのが中井の生い立ちでした。

 自身も作家である中井の根底には、思春期に抱いた父への激しい反発がありました。その反発は”地上の原理”――つまり男女関係への嫌悪にも結び付き、成人してからも残ったままでした。父のようになりたくない、という一心で反戦論者の立場をとったことからも、コンプレックスは相当根深かったようです。

 そんな彼は、ふみ子に対して以下のように手紙を送っています。

 いま僕は何の自惚れも、何の躊躇もなく貴女を愛する、といひたい(……)
 けれどもそれは豪も地上的な意味は含んではゐない、好いたとか惚れたとか、女臭く男臭い人間達が繰り返すあの風習とはかかはりのないことなんです。

平凡社版『[新編]中城ふみ子歌集』p.324
1954年7月14日 中城ふみ子宛中井英夫書簡(速達)

 中井は純粋に、歌人としての中城ふみ子への愛を以て手紙を書き続けました。そんな中井のことを、ふみ子自身また「私のあしながおじさん」として、恋愛感情とは異なった思慕を寄せています。

 だからこそ、往復書簡でやりとりされる詩集についても、間断容赦なくお互いの思いをぶつけあっていました。『乳房喪失』として出版されることになったこの詩集の題を、ふみ子は当初難色を示しました。彼女が自費で出すときにつけた題は『花の原型』……「乳房喪失だけはかんにんして下さい」、と1954年5月21日の手紙で綴っています。

 対する中井はふみ子を慮りながらも、編集者としての一線はかたくなに譲りませんでした。出版する以上、商業作品として通用する題でなければ、という一徹さが伺えます(いつの世も避けて通れない問題ですね……というのは大きな独り言ですが)。

 彼としても、自ら見出したふみ子が世に盛大に迎え入れられるため、打つべき方策はすべて打つ、という心づもりだったでしょう。6月1日の速達に「売れますよ絶対。三版まで重ねるつもり。もつとでなくちや、いけないかな」とあることからも、その意気込みが伝わってきます。折しも川端康成氏に依頼した序文の件で騒動が起き、ふみ子が消耗して弱気になったときのことでした。

 一歌人と、一編集者として――お互いの純然たる情熱の末に、『乳房喪失』は誕生しました。その衝撃的なタイトルと内容、作者の身に起こった悲劇と、数々の要因が絡んで送り出された本作は、歌壇に嵐のような賛否両論を巻き起こしました。

 その余波も激しく、のちにふみ子自身のドラマチックな人生を題材にした『乳房よ永遠なれ』という実写映画になるまでに至りましたが、これは脚色が強く、本来の彼女からかけ離れている、との評価もあります。

 このようなセンセーションがいいことだったのか、悪いことだったのか、判断する資格を持つ中城ふみ子自身は既にいませんでした。それでも時を経て、純粋に彼女の歌それ自体が見直される動きもあります。没後50年、100年と経て、未だふみ子の歌が忘れ去られず強い光を放つのは、歴史に刻まれるほどのインパクトを以て歌壇に現れたからです。

 中井英夫はこうなることを願って、ふみ子の望まぬ『乳房喪失』を押し通したのかもしれない……と、そんなことを感じました。

何が虚構で、何が真実か――わからないままに惹きつけられる、強烈な“我”の閃光

平凡社版『[新編]中城ふみ子歌集』を読んで

 今回、『中井英夫・中城ふみ子』展に伺うにあたって、中城ふみ子関係の書籍をいくつか読みました。その中で一番興味深かったのが、平凡社版『[新編]中城ふみ子歌集』です。

 ふみ子の歌と、中井との往復書簡が収録されており、それだけでも充実した内容だったのですが、巻末の菱川善夫氏による解説が非常に印象的でした。

 今までご紹介してきた通り、中城ふみ子というと真っ先にその演技性の高さが取り沙汰されます。ここでお出しした和歌も、そういったものをあえて選びました。愛憎、乳ガン、子どもたち――『乳房喪失』に収録されたそれらの短歌を見て、ふみ子の作品は社会性に欠ける、とする向きもあります。

 しかし菱川氏は、当時表には出なかったふみ子の作品の数多くに、多様なテーマが詠み上げられていると指摘しています。

 戦後短歌史のうえでは、中城ふみ子の決定的評価を優先させるため、もっとも特徴的な愛と死の側面に光をあてて強調せざるを得なかった面がある。そしてそれは、中城の本質を確定するための貴重なたたかいとして評価しなくてはならないが、中城ふみ子の世界への接触の自由さは、本来もっと柔軟なものがあった

平凡社版『[新編]中城ふみ子歌集』解説 p.361

 本著に収録されている短歌を読んで、確かに頷きました。代表作として挙げられるものはふみ子の自信たっぷりの様子が伺えますが、他の作には自虐するもの、東京に飛び出したときのやるせなさを綴ったものなどもありました。戦後の社会に目を向けた歌もあります。

 知れば知るほど底の見えない“中城ふみ子”という歌人の本当の姿は、いったいどこにあるのか……そう考えたときに、ハッとしました。この迷路のような魅力こそ、ふみ子の意図したものであり、中井が演出したものでないのかと。

「他者から見える己」を真っ向から受け止めた先に、花開く表現

 中城ふみ子は、その作品の演技性の高さと衝撃的な題材を以て短歌史に名を刻みました。しかしその入り口から入って彼女自身を追いかけていくと、様々な側面が次々に浮かんできます。

 遺された作品や資料、当時の彼女を知る人々の証言……それらの中には、従来の評価を覆すものも多々あります。次第に、何が中城ふみ子の真実で、何が虚偽だったのか、一読者に過ぎない者にはわからず、幻惑に陥る感覚でした。

 しかし、だからこそ彼女の人生とその結晶である作品の数々は、底知れない魅力を孕んでいます。ミロのヴィーナスの両腕が失われているのと同じように、理解するためのピースが完全に揃っていないからこそ、人は己自身のふみ子象を打ち立てて、解釈に臨むしかないのです。

 もちろん、単に情報が不完全だからこんな結果になったのではありません。彼女が作品と生き様を通して最期まで美しくあろうとした意志が根底に連なっているからこそ、人を惹きつける強烈な光を放つのです。

 美しくあろう……それもつまりは、演技です。他者に見える己を計算し、打ち出していく――それを一生懸けて徹底したところに、中城ふみ子の凄まじさがあります。

承認欲求の時代にこそ、重く響くふみ子の「遺産」

 他者に見える己……自分が人からどう見られているか、というのは、現代では一層共感を持って受け止められるテーマではないでしょうか。”承認欲求”という言葉が一般的になって久しく、特にSNS上では他者の視線を気にせずにはいられない風潮があります。

 だからこそ、ただ他者の視線に翻弄されるのではなく、逆に自ら演技して対抗していくふみ子の生き様は、現代人にとっても華々しく、憧憬を以て迎え入れられるものだと感じました。

 何がほんとうの彼女だったのか、後世に生きる者にはわかりません。ただその中でも、「自分自身」の表現を最期の一瞬まで貪欲に追い求めた人だ、というのは筆者の中で揺るぎない印象として結実しました。

 ふみ子がどんな逆境においても自分自身の美しさを諦めなかったからこそ、あれほどの自我の迸りが作品に宿り、中井という最大にして最高の「あしながおじさん」に出逢えたのだと思います。

 演技する、というと何か嘘くささもありますが、実際誰しも、演技なしには生きられないのです。ならば、ふみ子のように他者に規定されたものでなく、堂々と自分のなりたい自分を演じきることこそ、人生を痛快にしてくれるのだろうと、今回の旅を通じて感じました。

 生誕100年を迎え、今後どのように中城ふみ子像が変遷を辿っていくのか。一ファンとして、また文章に携わる者として、楽しみに思います。今回本稿を読んで興味を持ってくださった方も、ぜひふみ子の世界を訪れて頂ければ幸いです。

【おまけ】ふみ子のスタートにしてゴールである帯広も訪ねました

雪の中にも凛とたたずむ、緑ヶ丘公園内の第二歌碑

自由に遊ぶ子どもたちを詠んだ短歌。
緑ヶ丘公園では実際に子どもたちが遊んでいて、シチュエーション的にもぴったりでした。
第一歌碑は場所の調べ方が間違っていてたどり着けなかった……必ずやリベンジ。

帯広図書館、中城ふみ子資料館――愛用の衣類などの資料や、小冊子も

帯広図書館2階に、ふみ子ゆかりの品やインタビュー記事などが展示されています。
同志が発行した冊子も販売されており、ふみ子を知る人物からの貴重な証言に触れられます。



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