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息子たちがくれたもの

近所の図書館に出かけた帰り。

ベビーカーには15㎏の長男と大量の本。抱っこ紐には8㎏の次男。二人そろってお昼寝中。

おまけに我が家は坂の上にある。

次男の首が後ろにガクンと倒れるのを押さえつつ、片手でベビーカーを押すのは、育児で鍛え上げた腕でも、なかなかにつらい。

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長男は最近、「死にたくない」と言う。

死んでしまうとママに会えなくなる、という恐怖から来るようだ。(その割には平気で道路に飛び出すし、暴れまわって怪我ばかりだが。)

だから、将来は「死なない薬」を開発するカガクシャになるとのこと。(ちなみにその薬は、塗り薬だそうだ。)

そう話す長男の目がとてもキラキラしていて、子どもが持つ無限の可能性とやらを目の当たりにした。

それは、とても幸せなシーンであるはずなのに、なぜか息が詰まるような思いがした。


子育てを通して、児童虐待や子どもの貧困を身近に感じるようになった。いつ自分が虐待をしてもおかしくない、貧困に陥る可能性だって否定できない。

特定の人物ではないけれど、確かにいるであろう、SOSを叫ぶ子どもたちが、いつも自分の子どもたちと重ねて見えてしまう。


「死にたくない」 「将来はカガクシャになりたい」

そんな言葉が、息子だけではなく、SOSを叫ぶ子どもたちからの声のように聞こえた。

自分の子どもが良ければ、それで良い。そんな風には到底思えない。

自分の子どもが最高に愛しいからこそ、ほかの子どもたちもやはり愛しいのだ。

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息子たちの重みは、なぜか心地よかった。

自分が産んだ子どもたちが、確かに生きている、堂々と存在している、そして私はそれを受け止めている。そんな自信に似た優越感を覚えた。

何者でもない自分を、母親にしてくれた子どもたちに感謝をしつつ、いつかまた違う何者かになって、もっと多くの子どもたちに手を差し伸べたい。「母親になること」が夢だった私は、母親になったからこそ、そんな夢を思い描いている。


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