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「信じる」ということ

最近、グッと心が動くと感じているのが、誰かの「信じる」に触れた時。

『〇〇を信じる』って、よく見る文言ではあるけど、”信じる“という言葉が持つエネルギーに惹かれている。身近なひとが、「俺はこれを信じているんだよね」と口にしたら、きっと僕は惹き込まれる何かを感じるだろうなと思う。

そんなことを考えはじめたのは、僕が主催している「コミュニティのカレッジ」で、ツクルバ 中村真広さんにゲストとして来てもらったことがきっかけだった。

講義の中でコミュニティや村づくりに関するさまざまなことを話してくれたのだが、その中でツクルバのステートメントを話してくれたのが印象に残っている。

内容が素敵なことはもちろんだが、それを話してくれた中村さんの口調や振る舞いから

「あ、この人は本気で”場”が持ち力を信じてるんだ」

と率直に感じた。

それが社会的に正しいとか、誰かに評価されるとか、そんなことではなくて、自分自身がその可能性を信じているということ。それはとてもカッコよくて、美しいことだなと思えた。

それも初対面の他者の前で、自分が信じているものを伝えることはなかなかのハードルだと思う。それを超えて「信じることの魅力」を感じさせてくれる姿に、僕の心はグッと動かされた。

それからだ。
「自分は何を信じているんだ?」と自問自答するようになったのは。

考えた先に行き着いたのが、先日noteでも書いた「コミュニティが持つエンパワーメントの力」だった。やはり、僕はコミュニティの力と可能性を信じている、信じたいと思っているんだなと、再認識させられた。


「あなたは何を信じているのか?」

その問いに対して、あなたはどんな言葉を伝えるのだろう。

そこに並んだ言葉にはきっと、あなたが大切にしている価値観だったり、世界観だったりが詰め込まれていると思う。

このように「信じる」について考えていたとき、こんな記事が流れてきた。

記事のなかで、こんなことが語られていた。

「信じる」と聞いて、まず思い浮かんだのは、そもそも「私があなたを信じる」といったことが、動作として成り立つのかという問いです。

たとえばヒンディー語では「あなたを愛している」と表現するとき「あなたへの愛がわたしのもとにやってきて、そしてそれがとどまっています」と表現するそうです。「愛している」というのは、誰かに働きかけたり、誰かから受け取ったりするのではなく、どこかからやってきて、自分にとどまる形で成り立つものなのだ、と。

同じように「信じる」も、どこかからやってきて、自分にとどまるようにして、立ち現れるものではないかと思うんです。

自分や他者を「信じる」とはなにか。“当てにならない自分”を受け入れ、他者とともに生きる方法を考える/松本紹圭さん・モリジュンヤ対談

「信じる」は、立ち現れてくるもの。
立ち現れるほどに、その物事と向き合っているということでもあると思った。まっすぐに信じられているひとは、きっとそれだけそのことを考えてきて、だからこそ行き着いた「境地」みたいなものでもあるんじゃないかと。

だから、僕はこれまで「信じる」って言葉を使うことに対して、躊躇していたんだと腑に落ちた。簡単に使ってはいけない言葉のように感じていたし、使いすぎると陳腐化する危険性も感じていたんだと思う。

そんな僕も、ようやく「コミュニティの可能性を信じている」と口にできるようになった。それまでに5年もかかったが、これだけ時間をかけたからこそ、自分のなかに留まり続けるものに育っていったんだと思う。

そう、きっとこの「立ち現れる」というのも、受け身な姿勢だけでは起こらないものなのではないか。「自分でつくっていく」という、能動的な側面も孕んでいるように感じる。

コンロトールできるものではないけど、待っているだけでもダメ。「立ち現れる」んだけど、「立ち現す」という姿勢。この受動能動のバランスが、「信じる」が立ち現れてくるために必要なもののように思う。

そして、この「信じる」ものが留まっている状態こそ、希望を持って人生を歩んでいく力になっていく。つまり、豊かさにつながる大切なピースになるんだろうなと。

僕はこれまで何を信じてきたのか?
今何を信じているのか?
これから何を信じていきたいのか?

それらの問いを持ち続けながら、これからも歩み続けていきたい。

それでは!


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