フェティシズムってなに?

このタイトルでエッチな内容を期待したみなさん、残念!

この記事はマルクスのいうところのフェティシズム(呪物崇拝、物神崇拝)という概念について述べた文章です。なお内容については『資本論』第一部第一章「商品」に全面的に立脚しています。

ものの価値はどこにある?

さて、私たちは日頃から次のような会話をよく繰り広げています。

「この家電製品には3万円を払う価値がある!」

「このワインの価値がわからないなんて君は子供だなあ」

このように、もの(もっというとそれは、市場で取引されうる商品のことなのですが)に価値があるという考え方はあまりに一般的になっており、私たちはそれを疑うことはしません。

ただよく考えると、ものの「価値」なるものはいったいどこにあるのか? ということが問題になってきます。かりに、先に述べた家電製品とワインに同等の価値(Xとしましょう)があったとして、そのXは家電製品のどこに含まれているのでしょうか? また1家電製品=1ワイン=Xだとしたときに、その等価性というのはどのような計測器を使えば測れるのでしょうか?

このように考えると、俗にいうものの価値なるものは、そのものの物理的・化学的特性には含まれていないことを理解できるでしょう。ワインにどのような物理的・化学的分析を加えたとしても、ワインに含まれる価値を明らかにすることはできないのです。

(なお、そのものを使ったときの効果、例えばワインのおいしさは、逆にものの物理的・化学的特性による部分がほとんどです。これはマルクスの用語では「使用価値」とよばれ、ここまで論じたような意味合いで用いられる「価値」とは区別されます。)

では価値とは何で決まるのか? ものすごく簡単にいえば、そのものが置かれた社会的状況によって決まるのです。たとえば同じ家電製品であっても、それがその時点では希少な最先端の技術を用いて、長い時間をかけてしか生産できないようであれば、価値は非常に高くなるでしょう。しかしその技術が一般化し、生産も容易になれば、価値は下がることが想定されます。このようにものの価値というのは、ものの中にあるものではなく、むしろものの外の状況で決まるのです

(これはマルクスがいうところの抽象的人間労働にかんする議論ですが、とりあえず上記のように理解すれば本稿では問題ありません。)

それでも私たちは日常的には、素朴にそのものの中に価値があるというふうに考えてしまいがちです。それが顕著なのは貴金属でしょう。貴金属とて社会的状況によって価値が変動するのですから同じことなのですが、その希少性から、どうもそれ自体に価値があるように思われがちです。

このような「ものの価値というのはそのものの中に内在している」という思い込みを呪物崇拝、英語でフェティシズムというのです。

フェティシズムは現代の宗教である

こんにち、自分で自覚的に信仰をもつ方以外は、宗教とは距離をとって過ごされていることと思います。しかし昔は、本人が望むと望まざるとに関わらず、生活や振る舞いのありとあらゆる側面が宗教に縛られていました。それへの反抗として、例えばルネサンスのような動きが生じたわけです。中学の歴史の授業で出てきたと思いますが、ルネサンスとは教会中心の世界観を離れて(古代ギリシアのような)人間性を復興しようという運動です。とはいえ、もう数百年も前のことですけれど。

では、そういう宗教に縛られた生活は過去のものとなったのか? 違います。伝統的な宗教こそ衰退しましたが、私たちはフェティシズムという宗教に縛られているのです。私たちは、神の存在信じて疑わないのと同様に、ものに価値が内在していることを疑わないのです

もちろん、そのことがただちに悪いわけではないのですが、価値の源泉が社会でなくものにあるという観念は、ものに対する執着を生みます。その好例が守銭奴です。また単に守銭奴であるのではなく、その貨幣を元手に増やそうとするのならば、これは資本家ということになります。ご存知のとおり資本家は、資本の増殖のためにさまざまな人を巻き込んで時に苦しめます。ここに人よりものの方が優位になっているというフェティシズムの顕著な例があります。

こうして資本家を取り巻く人々はもちろん、資本家さえも、ものの価値に振り回されることになります。宗教で神が人間を縛るのと同様、資本主義社会ではものが人を縛るのです。ちなみに神もものの価値ももとをただせば人が生み出したものであり、それがむしろ人を縛るという皮肉な点もこの2つは共通しています。

思い込みを規定するのは社会である

さて、ここまで話をすると、フェティシズムは諸悪の根源であるように思えてきます。しかし重要なのは、フェティシズムという思い込みがこの社会を作っているのではなく、この社会がフェティシズムという思い込みを作っているということです。すなわち、これほどまでに商取引をする社会だからこそ、価値というものが問題になり、それがフェティシズムを産んでいる、という順序なのです。もちろん、多くの人がフェティシズムに囚われることは、こうした商取引が全面化した社会、すなわち資本主義社会を温存する助けにはなります。だからといって、フェティシズムからこの社会が生じたわけではありません。逆なのです。

ですから、フェティシズムという思い込みさえ頭の中から追放すれば問題が解決する、ということはありません。フェティシズムを生んでいるこの社会を変えないことには、人はまたフェティシズムに囚われるでしょう。メスを入れるべきは人々の頭のなかではなく、それを取り巻く社会なのです

この「社会構造が思い込み(観念)を生む」という発想は、『フォイエルバッハ・テーゼ』『ドイツ・イデオロギー』『経済学批判(序文)』というふうに綿々と引き継がれてきた、マルクスの大きな遺産の一つです。フェティシズムという観念それ自体も面白く、それについて知ることはためになるのですが、一方で社会構造が思い込みを生む、だから変えるべきは頭の中でなく世界であるという発想もまた、われわれに示唆を与えるものだと思います。




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