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【神学#001】読む気が起きないでしょ?^^ | 「否定」と「神学」て! | おもしろいのよ?♡

 「絶対に開くもんかっ!」
 「どうせ硬い内容だろう!?」
 「誰がお前の記事なんて読むか!」
 「初学者が偉そうに神学を語るな!」

わかる!

お気持ちはわかる!

それでも断言します!

全てのビジネスパーソン、必読!

だけど長ったらしいとつまらいなんでしょう!?

今回は本当にまとめました^^

一緒に、学んでいきましょう!


いつものあいさつ

やあ!コミュリーマンです!

 「何者だ!?」

と、お感じになる方がほとんどかと思いますので、気になる方については自己紹介目的の以下3つの無料記事にお目通しいただければ幸いです^^

#001【はじめまして】コミュニケーションが苦手でも大丈夫!自分に合ったコミュニケーションと出会う場所

#002【わがままに生きたっていいじゃない】わがままに生きるってどういうこと? |コミュリーマンが考える新しいわがままの定義

#003【失業者にはなりたくない】デジタル・AI革命時代に向けての「逃走者」ってなに? |コミュリーマンが考える「失業者」ではなく「逃走者」になる方法


なんで否定神学を学ぶんだ?

そうですよね?

理由がないといけません。

私が考えるその理由(もはや答え)は以下のTweetをご覧ください。

「神とは何でないか?」と問われたら、皆さんは何とお答えになりますか?

いったん本記事を読むお手を止めて、考えてみてください。

いかがでしょうか?

わかりませんよね?(決めつけんな)

だから一緒に学ぶんです^^

更に本記事の最後には、皆さんが本記事をお役立ていただくメリットを提示させていただきます。(釣りではなく私の文章の構成上)

ぜひ一緒に楽しみながら学んでいきましょう!


そもそも神学?

神学は、神や宗教についての学問である、ということは説明するまでもありませんね。特にキリスト教の文脈で使われることが多いです。その中心的な課題は、神の存在と性質、人間と神との関係、善悪の問題、宗教的な信念と実践について理解を深め、解釈し、説明することです。

では、どのような種類があるかといえば、系統神学や比較宗教神学などといった、何だか難しそうな名前が付いた学問がとてもたくさんあります><

これらを全て丁寧に説明していくと、とてもではありませんが本記事ではまとめるどころか収まりきりません。

ということで、まずは3つに分けて整理しながら進めます。

1. 無神論:神の存在自体を否定する立場です。無神論者は神や超自然的存在を信じません。超自然的存在とは、自然の法則や物理的な制約を超越した、説明できない存在や現象を指します。これらはしばしば宗教、神話、幽霊や魔法、奇跡、神々、天使、悪魔などの概念と関連付けられます。はい、私たちの多くは「無神論者」ですよね?^^(僕はブッディスト^^)

2. カタファティック神学:そもそも「神学」という教えがあります。これは神についての肯定的な声明を用いて神を理解しようとするアプローチです。つまり、神の特性や性質(全知全能、永遠なる、愛するなど)について積極的に語ることによって神を理解しようとします。

3. アポファティック神学:そして今回お伝えするのがこのアポファティック神学、そう「否定神学」です。これは否定的な神学を意味し、神の究極的な本質は言葉で語ることができないという前提に基づいています。このアプローチでは、神について語る時には否定的な形(神は不死である=神は死なない、神は無限である=神は限定されていないなど)を使用します。これは、人間の言葉や概念が神の本質を完全には捉えられないという考え方に由来しています。

はい、本記事のテーマ「否定神学」について、伝わりましたか?

今いちピンとこない方が多いかもしれませんね^^

もう少し嚙み砕いてご説明いたします。


否定神学とは何だ?

【結論】
否定神学(アポファティック神学)は、神の本質や存在について、ある事柄が神で「ない」ことを述べることで理解を深めようとする神学の一派です。

 「ん?」
 「んんん?」
 「これだけ!?」

ですよね?^^

言い換えれば、否定神学は神の性質を直接的に理解、説明、表現することは「不可能である」と考えるんです。神が何ではないか、つまり神が人間の理解を超える存在であることを強調します。例えば、「神は変わることがない」、「神は有限ではない」、「神は時間に束縛されない」などのように、神が何で「ない」かを述べることで、神についての理解を深めます。

いかがでしょうか?

何だかわかったようで、もうちょっと足りないという感じでしょうか?^^

それでは、ここからは「神」を「善」に置き換えて考えてみましょう、そう善悪の「善」です。

善悪を考えるときに思い浮かぶのが裁判ではないでしょうか?

と、硬い話が続くのもなんなので、例え話にしたいと思います♪

とある町に一本の大きなリンゴの木が生えていました。その木は年中豊かな実をつけ、町の人々には大きな資源となっていました。しかし、リンゴは全てが同じではなく、甘いリンゴと苦いリンゴが混じっていました。人々は甘いリンゴを求め、苦いリンゴを避けるようになりました。

しかし、誰もがリンゴの味を見分ける方法を知らなかったため、誤って苦いリンゴを食べることがありました。そのため、町の人々はどのリンゴが甘く、どのリンゴが苦いかを判断するための規則を作りたいと思いました。

町の長は人々に一つの提案をしました。それは、毎日、特定の人々がリンゴの木からリンゴを選び、それを試食するというものでした。彼らはそのリンゴが甘いか苦いかを判断し、リンゴの木の下にリンゴを分けて置くのです。そして、その日のリンゴの味を議論し、最終的な判断を下すのです。

このシステムは、裁判の例えとして機能します。リンゴの選び手は裁判官や陪審員のように、個々のリンゴ(またはケース)を評価し、その「善」(甘さ)と「悪」(苦さ)を判断します。彼らの評価は、リンゴの品質や特性に基づいており、その結果は公に議論され、最終的にはコミュニティ全体に公開されます。

これは、私たちの法律システムがどのように機能し、個々の行為や状況が「善」または「悪」に分類されるかを示しています。私たちの法律システムは、公正で透明なプロセスを通じて、公に評価され、調査され、裁定されます。それは私たちの共同体が安全に、そして公正に機能するための重要な役割を果たしています。

ここまでは何となく伝わりますよね?

りんごの例も裁判も、然るべき人たちが議論をしたうえで決定しているわけではありませんよね?

議論をするということは、要するに「完全には納得できていない人がいる」という他になりませんよね?

はい、問題はここからですっ!


「完全な善」ってありますか?



10人がりんごを食べて全員が「甘い」と感じる確率は低くないでしょう。ところが、その人数が1,000人になったら?1,000,000人になったら?全員が「甘い」と言うでしょうか?僕の身近には実際に「甘すぎるりんごは苦い」という人がいます、本当です。(だからりんごの例えにしてみました^^)

そうですよね、味覚や好みには個人差がありますよね、ええ「感覚」や「価値観」が違うということです。

はたして完全な甘さ「完全な善」というもはあるのでしょうか?

皆さん大好き「鬼滅の刃」という漫画がありますよね。私はあまり詳しくないのですが、あの漫画は人を喰って殺す鬼にもすごい人気があるそうです。人を喰って殺すのですよ?なぜ人気があるのかと言うと「好きで鬼になったわけじゃない」「鬼にも事情がある」といったような鬼=悪側の心理描写や事情が丁寧に描かれていることが理由なのだそうです。

転じて現代を生きる私たちが日頃目にするニュースで考えてみましょう。日夜起きる凄惨な事件があります。おそらく本記事をお読みの皆さんは常識者でいらっしゃるので「犯人が絶対悪い」と考えるかと思います。しかし、そう思わない人が一定数いることもご存じですよね?つまりここでも「完全な善」というものは存在しないのです。実に難しいものです。

ではどのように考えれば良いのでしょうか?

さあ!

ということで、お待たせいたしました!

ここで皆さんが本記事をお読みいただくメリットを提示して参ります^^


否定神学を学ぶメリット

私たちビジネスパーソンが否定神学を学ぶメリットをお伝えして参ります。

個人的には、もはやメリットどころか「それこそが心理」と言っても過言ではないかと考えているくらいです。

忙しいビジネスパーソンが、時間のないなかで何でわざわざ否定神学なるものを学ぶのか?

敢えてビジネスパーソンに限定している言い方ですが、それはビジネスパーソンこそが学ぶ必要があると考えるからです。

勿体ぶりました、結論です。


「完全な理解や把握が不可能な現象や問題に対する新たな視点やアプローチを提供するのが否定神学であるから」



皆さん、VUCAという言葉は耳目にしたことがありますよね?

VUCAとは

・Volatility(変動性)
・Uncertainty(不確実性)
・Complexity(複雑性)
・Ambiguity(曖昧性)

これらの各英語の頭文字をとった造語です。この用語は、特に戦略計画やリーダーシップの文脈で使われ、現代の経済や社会が抱える不確定要素や複雑性を説明するのに用いられます。VUCAとはつまり「正解の無い時代」という意味です。

ここで話をもう一度「完全な善」に戻します。

否定神学の視点からは、「完全な善」は我々が完全に理解したり、言葉で説明したりすることはできません。そう、そもそも「できない」のです。なぜなら、神の性質は人間の言葉や理解を超越しているからです。したがって、我々は「完全な善」が何でないか(つまり、善でない事柄)を説明することで、神の性質を間接的に理解しようとします。

例えば、「完全な善」は偽善ではない、「完全な善」は悪ではない、「完全な善」は不完全ではない、などと述べることで、我々は「完全な善」が何でないかを理解します。これにより、我々は神の性質について、直接的な理解ではなく、間接的な理解を得ようとします。

この思考のアプローチは神学的な議論において重要な位置を占めており、また宗教的な実践(祈り、瞑想、礼拝など)においても使われます。それは神の神秘性と人間の理解力の限界を認め、その中で最善の理解を試みようとするものです。

これ以上の説明は逆効果でしょうか^^

最後に伏線回収です。(最初から答えは定時していましたけどね^^)

・否定神学という考えは何にでも有効

・「何をやらないか」「何はしたくないか」を決める方が良い

ということです^^

本記事は、上記の投稿に対して私自身がリカレント(嘘です未知でしたw)した内容を皆さんへ共有することで、また一つ「わがままに生きよう、もうちょっとくらい」をお伝えする試み記事でした♪


最後に

数少ない「本当のことを言ってくえる大人」の中でも、私にとっては唯一無二の存在です。(誇大表現に感じられると超嫌なので、敢えて「今のところは」と付しておきましょうか。たぶん変わんねーけど)

誰のことかは明記しなくてもわかりますよね!?(あんま言い過ぎて破門くらうんが唯一の恐怖なんですから)

若者がよく言うじゃないですか?

「まじ、神ぃ」って。

あれを誠実バージョンで思ってるのが私です^^

あほみたいに毎日「福音」浴びてますよw

皆さんにもお裾分けだい♪


追記

サムネイル回収してなかったーっ!

青空バックの石造おじさんは、古代ギリシャ哲学三大巨頭のうちの一角である「プラトン」です。

否定神学は神や究極的な真理について、究極的な真理が人間の言葉や概念を超えているという認識から生まれています。

これに対して、プラトンは現象界(我々が経験する物理的な世界)とイデア界(永遠不変の真理が存在する世界、ドラゴンボールの神の世界と考えましょうか!)という二元論を提唱しました。彼にとって、真理はイデア界に存在し、それは永遠で完全だったそうです。しかし、我々人間が知覚する現象界は不完全であり変化するもので、イデア界の真理を完全に反映することはできません。(ついてきてー^^)

要するに、プラトンの現象界とイデア会(ドラゴボール界)の二元論と、否定神学には共通点があるということです。

つまり、究極的な真理や神は、人間の知覚や理解を超越しているということ、言い換えると、我々が直接的に知ることはできないという認識ですね。

したがって、プラトンの哲学は否定神学の思想に影響を与え、否定神学の発展において重要な役割を果たしました。神や真理を直接的に語ることの困難さ、そしてそれによって引き起こされる間接的なアプローチの必要性という視点は、プラトンから否定神学へと続く思想の連続性を示しています。

ここは「サムネイル回収」のためだからそんなに気にしないでください^^


それでは、また次回です。

コミュ力上げて、モチベを上げよう!
それが、本当になりたい自分になる第一歩です!

ありがとうございました!^^


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