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『海がきこえる』を読み(視聴し)なおす:その41 『海がきこえる』における「今」とはいつのことなのか?ー拓と里伽子の未来を探るー

タグ: #読書の秋2021 ,#海がきこえる,#海がきこえるⅡアイがあるから,#氷室冴子,#スタジオジブリ,#アニメ,#小説,#考察,#ネタバレ

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 前回、『アニメージュ連載版小説』の入手について紹介しました。

 今回、『海がきこえる』における「今」についてと描かれることのなかった拓と里伽子の未来について考察してみたいと思います。


『海がきこえる』における2つの視点ー拓の「自己主張」と「今」の視点が生み出した「魔法」ー


 『海がきこえる』の考察のために何度も「小説版」を読み返しているうちに、筆者は作中のある「言葉」に疑問を感じるようになりました。

 それは、高校時代・大学時代を含めた拓の述懐にたびたび登場している拓の「今」という「言葉」です。
(他に「あとになって」「未だに」という言葉を含みます)

 それがどうして、<中等科の修学旅行中止、高等科五年生のときに一本化>という計画につながるのか。今もよくわからないけれど、あのときはもっとわからんかった。
「海きこ」第二章 41ページより引用

 拓が中学時代の「修学旅行中止事件」を振り返った際のセリフです。
 拓は、「高知」での高校時代を振り返りながら、里伽子と関わるきっかけとなった「ハワイへの修学旅行」の発端ともいえる、中学時代の「修学旅行中止事件」に思いをはせます。
 いわば拓の回想シーンなのですが、このシーンには「2つ」の拓の視点が隠されているのです。
 1つは、「あのとき」という中学生だった頃の拓の視点。そしてもう1つが中学時代を振り返っている「今」の拓の視点です。

 (1作目に限っていえば、)『海がきこえる』は、大学生の拓が「高知」での高校時代を回想する物語という側面が存在します。それを踏まえると、拓のセリフの「今」「大学生の拓」だろうと考えるのが自然な解釈だと思います。筆者も考察をする前まで、特に気にすることもありませんでした。

 ですが、「海きこ」後半「海きこ2」において、大学生となった拓の物語が進行するようになってからも、この「今」「あとになって」「未だに」という言葉を含む)という言葉が拓の述懐に登場しているのです。(「海きこ」第五章 224ページ、「海きこ2」第一章 24ページ、第二章 63ページ、65ページ、75ページ、第三章 127ページ)
 また、高校時代の回想においても、拓の述懐の中にこの「今」という言葉が何度も登場しています。
(「海きこ」第二章 35ページ、41ページ、48ページ、57ページ、第三章 74ページ、82ページ、95ページ、第四章 114ページ、166ページ、第六章 259ページ、261ページ、262ページ)

 あとになって考えると、里伽子のアパートを訪ねる気になったのは、津村知沙の恋愛話を聞いたせいのような気がする。
「海きこ」第五章 224ページより引用
 すると、ふいに田坂さんは饒舌(じょうぜつ)になって話しだした。どうして田坂さんが、ぼくにあそこまで詳しいことを話したのか、未だによくわからない。
「海きこ2」第二章 63ページより引用

 また、「今」という言葉だけでありません。引用した拓の述懐にある「あとになって」「未だに」と言葉からわかるように、拓は「未来」のある時点から大学時代を含めた「過去」を振り返っていると思われるのです。

 このことを踏まえて考えると、ある見方が浮かび上がってきます。

 それは、拓の1人称の形式で書かれた小説『海がきこえる』が、全編に渡って「今」という拓の「未来」のある時点の視点で、里伽子との出会いから始まる自らの過去(高校・大学時代)を振り返っている物語なのではないかということです。

 大人になったーつまり、作中の言葉を借りれば「マン」になった「未来」の拓が、里伽子と思い出である高校・大学時代の出来事を「今」と「あのとき」の2つの視点をまじえて述懐しているのが『海がきこえる』の「地の文」ではないかとする見方です。

 そして、「今」という未来の視点が、作者によって拓にかけられた「魔法」を解き明かすカギなのではないかと筆者には思えるのです。

 拓にかけられた「魔法」ーそれは、読者が拓のことを「かっこいい」と思うようになるという「魔法」です。

 筆者は、『海がきこえる』を考察するにあたり、自分以外の読者が作品に対してどのような感想を抱いたのか調べたことがあります。そんな中、主人公である拓について、「拓がかっこいい」「拓のような友人がほしかった」といった感想を何度か見かけたことを記憶しています。
 主人公なのだから「当然」だと思うかもしれません。しかし、漫画原作者である筆者から見ると「拓がかっこいい」と思えるのは、全然当たり前でないのです。
 なぜなら、読者が主人公である「拓がかっこいい」と思うのは、作者である氷室 冴子先生(『アニメ版』では望月監督以下スタッフ)が、拓がかっこいいと思えるように計算した上で拓のキャラクターを徹底的に創り上げたからなのです。

 「拓がかっこいい」という感想がある一方で、「お風呂で寝る」というカッコ悪いシーンがあったり、ヒロインである里伽子に振り回されてばかりといった拓の「情けない」側面が存在することも事実です。
(ジブリの宮崎 駿監督に至っては、「拓はどうして里伽子と同じホテルに泊まっているのにアタックしないんだ?」と拓の「男らしさ」に辛口の評価していたと「アニメ版DVD」特典の「座談会」の中で言及されています)

 情けないうえに男らしさにも欠けるきらいがあるものの、(筆者を含めた)多くの読者が「かっこいい」と思える主人公の拓。

 作者である氷室 冴子先生は、

「拓がかっこいいと思えるような『魔法』をかけた」

ということを、インタビューで何度か話されています。
(『氷室冴子読本』・『海がきこえる COLLECTION』より)

 作者が拓にかけた「魔法」「正体」とは何なのでしょうか。筆者にもこの「魔法」(というか謎)が完全にとけたわけでありませんが、少なくとも2つの「正体」が存在していると考えます。

 まず、1つ目が「拓はいざというとき、しっかりと自分の意見・考えを自己主張できるという人物設定を、物語の比較的早いうちに読者に提示した」ことです。

 具体的には、筆者が冒頭で引用した拓のセリフのシーンである中学時代の「修学旅行中止事件」(「海きこ」第二章 40ページ~57ページ)のことです。
 拓は修学旅行中止の決定に際して、講堂で大勢が見ているにもかかわらず、挙手をして反対の意志を示しています。そればかりでありません。反対の意志を示していた同級生たちが次々と「脱落」していく中で、最後まで意志を貫き通して美術室で修学旅行中止に対する反対意見を書き上げているのです。(この事件がきっかけで、拓が松野と親友になったことは、読者の皆さんもご存じだと思います)

 大勢の中で一人だけ違った行動することは、その人物のキャラクターを読者に印象づけるもっとも効果的な手法の一つです。(「アニメ版」において、挙手した人物を拓と松野に絞ったことで、余計に2人のキャラクターが強調されていることは、以前考察したとおりです)

 自分の信念を最後まで曲げない意志の強靭さを読者に早い段階で提示したことで、読者に対して「拓はいざとなったら、自分の意志をしっかり自己主張できる人物」だということが強く印象づけられます(いわゆる「キャラが起つ」ということです)。
 その印象が「海きこ2」のラストまで一貫して保たれていたからこそ、読者は拓をかっこよく思うーそれこそが作者が拓にかけた「魔法」の一つだと思えるのです。

 そして、2つ目がさきほど筆者が書いた「里伽子との思い出である高校・大学時代の出来事を、未来の拓が「今」と「あのとき」の2つの視点をまじえて述懐していた」ことです。
 大人になった拓が当時を振り返って、その時気づかなかったことや未来の「今」の気持ちを地の文に(それとなく)盛り込むことで、高校・大学時代の拓に対する、どこか「大人びた」印象を(無意識のうちに)読者は抱くことになるのです。

 具体例をあげると、他作品ですが『名探偵コナン』の主人公である「江戸川コナン」(工藤新一)の存在を思い浮かべればわかりやすいと思います。

 ご存じの読者の皆さんも多いと思いますが、高校生探偵である工藤新一は黒の組織が作った薬によって身体が縮んでしまいます。自分の正体がバレたら同級生で幼馴染の毛利蘭や多くの知り合いを危険に巻き込むことになるーそう考えた新一は、江戸川コナンを名乗り、小学生となって黒の組織の謎を追い続けます。
 探偵として多くの難事件を解決に導くコナン少年。「見た目は子供、頭脳は大人」のキーワードが象徴するように、高校生の新一が小学生のコナンとして振る舞っているがために、その発言や発想が周囲の人物(や読者)に「大人びた」印象をもたらしているのです。そんなコナンの小学校の同級生で「少年探偵団」の仲間たちは「大人びた」コナンに対して、「カッコよさ」や「憧れ」を自然と抱きます。

 この『名探偵コナン』の主人公の特徴ともいえる、「内面」と「外見」との「ズレ」が、そっくりそのまま『海がきこえる』の主人公の拓に当てはまるのではないかということです。

 大人になった未来の拓の「今」の気持ちという「内面」、そして拓の述懐によって物語として描き出されている高校生・大学生としての「外面」。そのズレが生み出す「大人びた」視点での述懐が、読者に「拓がかっこいい」と思わせるもう一つの「魔法の正体」なのではないかと思うのです。


拓の「今」とはいつなのか?ー社会に出て数年後の未来から過去を振り返る拓ー


 未来の「今」の視点で、里伽子との出会いを振り返っていくー拓の未来の視点に立ち小説の書き出しを読みなおしてみると、何気ない1文が決定的な意味を持ち始めてきます。

 いろいろ問題はあったけれど、やっぱりすべては里伽子に戻ってゆくんだと思う。
「海きこ」第一章 8ページより引用(小説の1行目の書き出し文)

 「すべては里伽子に戻ってゆく」ーつまり、未来の「今」を生きる拓は、「里伽子との関係性」から始まった人生のレールを進んでおり、「今」日までの拓の人生に里伽子の存在が大きな影響を与えていることが書き出しの1文から浮かび上がってくるのです。
(ちなみに「アニメージュ版 連載第1回」の1行目の書き出し文は少し違っていて、「いろいろと問題はあるが、一番の問題は、やっぱりハワイだったと思う」という書き出して始まっています。2つの書き出しの差異の背景には、拓が高校・大学時代の出来事を「ある時点から直線的にとらえているか」・「里伽子との関係性の中でとらえているか」という「見方」の違いがあるように思われます)

 以前、筆者は『海がきこえる』において、「2人は単なる恋人同士でなく、里伽子のつらい経験を一緒に乗り越えてきたことで、『相棒』(バディ)といえる存在である」と考察しました。
 拓がさまざまな経験をとおして自分自身を「成長」させながら、「つらい経験」に遭遇している里伽子を支えつつ、「相棒」(恋人)として一緒に乗り越えていくーそれゆえに『海がきこえる』は、「里伽子との関係性」の中でつむぎだされていく物語であるといえるのです。

 「里伽子との関係性」の物語であるがゆえに、里伽子は主人公でないにもかかわらず「海きこ」と「海きこ2」における「すべての章」に登場を果たしているのです。
(ちなみに「海きこ2」第五章に限り、里伽子は直接登場こそしませんが、知沙のセリフの中にしっかりと登場を果たしています。「海きこ2」第五章 191ページ)

 では、未来を生きる拓が高校・大学時代の里伽子との思い出を振り返っている「今」とは、果たして「いつ」なのでしょうか。

 結論から言えば、筆者は「小説版」の記述の中に具体的な時期を見つけることができませんでした。しかし、拓が「今」について述懐する中にそれを考えるいくつかの「ヒント」が断片的に存在していると考えます。

 ぼくは人当たりがいいから、クラス替えがあるたびに、だれとでも仲よくなるし、友達もたくさんできた。
 けれど、ぼくの中で、松野豊がいる場所はいつも、ほかの連中とはちょっと違っていた。それは当然のことだし、今でもそうだ。
「海きこ」第二章 57ページより引用

 拓は、高校時代最後の学園祭で松野と仲違いしますが、大学生になって最初の夏休みの「高知」への帰省がきっかけで、松野との友情を再開させています。
 この述懐にある「今」を未来の拓の視点で見た場合、大人となった拓が松野との友情を継続させていて、いまだに「親友」と呼べる間柄であることが推定できます。少なくとも拓と松野は健在であり、死別するような年齢になってから高校・大学時代を振り返っているわけでないことが考えられます。

 てきぱきしてるし、とっさの判断もあるし、いい人だと思っていたし、その印象は今でも変わらない。いい人だと思う。
「海きこ2」第二章 65ページより引用 

 田坂のアパートで、拓が田坂の口から知沙とのこれまでのいきさつを聞くシーンにおける拓の述懐です。「海きこ2」のラストの時点で、田坂は大学3年生であり(何事もなければ)翌年には卒業する存在です。卒業と同時に田坂と疎遠になる可能性も考えられます。
 この述懐にある「今」を未来の拓の視点で見た場合、(強烈な知沙の印象もあって)拓の中で田坂が「完全に」過去の人物になっていない「未来」から田坂のことを「いい人」だと振り返っていることが推定できます。

 そう、ぼくが”挙手”(しかし、懐(なつ)かしい学校業界用語だ。世間にでたら通用せんぞ)をしたのは、ぜったいに意地やプライドのためではなかったと思う。正義感のためでもない。もちろん、信念のためでもない。
 ぼくはそんな立派な人間じゃない。
「海きこ」第二章 44ページより引用

 拓の中学時代の「修学旅行中止事件」で、拓が反対の「挙手」した理由を述べた際の述懐です。
 ここには「今」という言葉がないのですが、拓は「挙手」のことを「懐かしい学校業界用語」・「世間にでたら通用しない」とキッパリ断言しています。拓は、中学の頃の行動(「挙手」)を世間にでた「今」の視点でとらえていることがうがえるのです。
 少なくとも、拓は大学を卒業後、就職(自営業の場合もありますが)して社会人になった(世間にでた)「未来」から「挙手」について言及していることが推定できます。

 短い人生なりに、はじめて味わう感情は、いつもいつも印象深いものだ。ちょっとした敗北感や、足場をひとつひとつ外されてゆく孤立感や、そういったものは。
 そんなものをたかだか十五才の子供に、きっちり味あわせてやろうとしたカワムラのまっすぐな気持ちを、きっと評価できる時がくるのだろう。ぼくがもっと大人になり、もっと、世の中のしくみがわかった時には。今はとても、そんな気持ちになれないけれども。
「アニメージュ版」連載第4回より引用

 「アニメ版」に登場する高校時代の拓の担任だったカワムラは、映像から判断すると30代前半~40手前の「オッサン」でした。
 未来の「今」という視点から考えてみると、「今」を生きる拓はカワムラほど「大人」でなく、なおかつ「世の中のしくみ」をいまだわかりきっていない年齢であることが推定できます。

 ここまで引用した4つの拓の述懐を踏まえて考えると、1つの見方が推定できます。
 つまり、拓の「今」は大学を卒業して社会人になってから数年のいわゆる(20代半ば~20代後半の)「若手」と呼ばれる年代のどこかの時点で、高校・大学時代の里伽子との思い出を振り返っていることが浮かび上がってくるのです。


里伽子の「未来」ー小説版書き出しとサブタイトルが持つ「意味深」な印象と作者の「予言」


 一方、「海きこ2」のラストから数年後の世界ー永遠に描かれることのなくなった世界において里伽子はどうしているのでしょうか。

 残念ながら、「小説版」の記述から読み取ることができるものは、ほとんどありません。
 冒頭に引用した書き出し文の1節を踏まえなら、未来の「今」を生きる拓の側に里伽子はいないのではないかと考えます。なぜなら、里伽子が拓の側にいるならば、わざわざ思い出す必要がないからです。

 拓はいったい「何」「きっかけ」にして、(高校・大学時代の)里伽子との思い出を振り返っているのでしょうか。

 筆者には、「小説版」第一章のサブタイトルである「フェアウェルがいっぱい」(フェアウェルは英語で「お別れ」を意味する言葉)が、どうにも「意味深」に思えてきてならないのです。

 最後に、作者である氷室 冴子先生はインタビューで拓と里伽子の未来をこのように「予言」しています。

○拓と里伽子も大学時代をあのまんますごすということもあり得ないでしょう。
『海がきこえる COLLECTION』132ページより引用
○里伽子と拓もとりあえずパート2ではハッピーエンドだったけれども、あのふたりが、その後社会人になってまで付き合って、28ぐらいで結婚する仲良し同級生カップルになるとは思えないし。
『海がきこえる COLLECTION』134ページより引用


 今回、『海がきこえる』における「今」という言葉から拓と里伽子の未来を考察してきました。

 次回、「小説版」の構成要素から「海きこ3」(パート3とも言われている)がどんな話になるはずだったのかを考えてみたいと思います


ー今回のまとめー

『海がきこえる』における「今」と拓と里伽子の未来について

 「小説版」で拓は、高校・大学時代の出来事を「今」と「あのとき」の2つの視点をまじえて述懐している。『海がきこえる』は、全編に渡り「今」という拓の「未来」のある時点の視点から、里伽子との出会いから始まる過去を振り返っている物語であることが推定できる。
 また、この「今」という未来の視点は、「自己主張できる拓の性格設定」とともに、作者が拓にかけた読者に「拓がかっこいい」と思わせる「魔法」である。未来の拓の「今」の気持ちという「内面」と、述懐によって描き出された高校生・大学生としての「外面」とのズレが生み出す拓の「大人びた」視点が、読者に「拓がかっこいい」と思わせる「魔法」の1つだと考えられる。
 未来の「今」の視点で「小説」冒頭の書き出しを読みなおすと、『海がきこえる』が「里伽子との関係性」の中でつむぎだされていく物語であることが見えてくる。里伽子が「すべての章」に登場しているのはそのため。
 拓の「今」がいつなのかは断片的な記述から、大学を卒業し社会人になって数年の20代半ば~20代後半の「若手」と呼ばれる年代であることが推定できる。また、冒頭の書き出し文を踏まえると、未来の「今」を生きる拓の側に里伽子はいない可能性がある。拓は何かをきっかけに里伽子との思い出を振り返っており、「小説版」第一章のサブタイトルに深い意味が込められていることが推定できる。
 作者の「予言」から、拓と里伽子の未来には波乱万丈・紆余曲折が待ち受けていることが考えられる。 

※記事に使用した場面写真は、スタジオジブリ公式サイトが提供する「スタジオジブリ作品の場面写真」のうち、「海がきこえる」のページのものを使用・加工しております。


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