顔も名前もない言葉
満員電車に毎日揺られるようになってもうすぐ一年、混み合った電車に乗ることが日常になりつつある。一時は押しつぶされそうになっていた東京の無機質な空気に少しは溶け込むことができたようにも思えて、少しだけ胸を張っている。
満員電車は疲れる。人が目の前にいる。後から乗り込んだ人が押してくる。押された人が押した人を睨み、聞こえるように舌打ちをする。
そんな満員電車を多くの人が待つ待つ朝のホームに昨日は怒号が響いた。通勤時間の混雑したホーム上で、何人もの人が振り返る。だが、仕事に急ぐ人たちは野次馬にはならずに通り過ぎていく。男の人はこう叫んでいた。
「ふざけんじゃねーぞコラァ!!!!」
駅のホームでこういう光景を見るのは久しぶりだったので少々たじろいだ。そして去年の夏、ちょうど同じホームで自分に起きた出来事を思い出した。
その日はいつものように帰りの電車に乗っていた。仕事終わりに乗る19時前の山手線は当たり前のように混雑していて、駅に停まるごとに人を吐き出し、そしてこれでもかというほど飲み込んでいた。降りようとする人の波に飲まれ電車から吐き出されないよう、電車の扉のすぐ横の少し窪んだところに入り、隠れるようにじっとしていた。
気がつくと降りる駅のすぐ手前まで来ていた。弱ったなあ、と思った。降りるドアが自分のいるくぼみとは反対側だった。おまけに目の前には次の駅では降りそうもない人たちが立っている。そうこうしているうちに電車はホームに滑り込み、ドアが開く。
仕方がないと思って目の前にいる人に「すみません。」と言って頭を軽く下げ、スペースを開けてもらう。そのまま電車から降りようと進んでいくと、後ろからボソッと声をかけられた。
「すみませんじゃ降りられへんで」
…え。と思い声の方向を振り返ると、すでに電車のドアは閉まるところ。言葉を投げてきた人の顔はすでにたくさんの顔の中の一つになっていた。
あの言葉は間違いなく自分に向けられていた。冷たく、しかしねっとりとした言い方だった。一人の若者が「すみません」と言えば道を開けてもらえると思っているのが心底憎いようだった。
何も言わずに目の前にいる人を押しのけて降りればよかったのか、あるいは降りることがわかっているのならもう少し早く移動すればよかったのか。
あの人は一体何を考えていたのだろう。どんな電車の乗り方を理想としていたのだろう。仕事や家庭の具合はどうだったのだろう。
どんなに想像してもわからない。あの人の顔も、名前も知らない。
顔も名前もない人間からぶつけられたものに傷つくのはバカバカしい。
しかし、困ったことに頭の中では言葉がぐるぐると、巡ってしまう。
昨日の朝駅のホームで怒鳴っていたあの人もそうだ。あの人のことは何も知らないのに、言葉だけは頭の中でいつまでもこだましている。
不意に現れて声をかけ、そのまま去っていく人たちの言葉は妙に鋭い。
こんなことを考えているようでは、また明日の朝も誰かにぶつかって舌打ちされるのかもしれない。
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