言葉尻は、いとをかし
言葉は末尾。
だんだんと描写は進み、その連なりは少し整いを見せ、彩りをもつ文末がその味わいをじわりと押し拡げる。
言葉尻はとても面白い。
例えば、りんごが好き、という一文について考えてみる。
「りんごが好き」と「りんごが好きでない」は同じ文の最後に三文字くわえただけで、意味が正反対になる。
「りんごが好きか」と「りんごが好きね」は最後の一文字以外は全く同じ文なのに、その一文字が加えると、受け取れる意味の色が鮮やかに変化する。
さらには「好き」に関して、「好きだっちゃ」「好きやねん」「好きだ(や)けん」など、地方特有の言い方まである。
言葉尻にはその一文のニュアンスがかかっているとも言える。
お尻につけるのは記号でもいい。
?や!は万国共通。笑う、という動作に限定しても、日本語圏では(笑)、英語圏ではLOL(Lough Out Loudの意)といった具合に、書き手の感情の動きを文の後ろに入れ込むことが出来る。
絵文字もこの一種だと思う。
言葉の末尾を工夫することによって、時代や場所に応じた形で、様々な意味が付け足される。
これは、とても繊細でありながら同時に表現の限りない広がりを生み出す、言葉の特徴をよく表していると思う。
この文章の冒頭の言い回しは、「枕草子」中の、春はあけぼの、から始まる、最も有名な一節を意識して書いた。
当時、文章は大陸からもたらされた漢字での表現が主流だった中、この随筆には「をかし」の末尾で仮名交じり文特有の雰囲気が取り入れられた。
そんな言葉運びを意識してみると、平安時代の宮廷の人々の心など想像もできないくせに、心地の良いリズムが体の中に生まれるのを感じ、心動かされた。
ほとんどの人は教科書を読むときにしか、をかし、と口にしない。「をかし」もまた、当時の雰囲気をよく表していた言葉だ。
だから、現代では馴染みのない響きであるけれど、伝えようとしていることやその雰囲気は、今使っている言葉の中にも無意識に、しかし色濃く溶け込んでいることにふと気がついたりする。
言葉からしか、文末からでしか読み取れないけれど、やはり感動してしまう。
日本最古の随筆の息遣いは案外、私たちのものと似ていたのかもしれない。
素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。