ナンデナンデ星の住人たち
幼いころ、毎晩父の帰りを待って一緒にお風呂に入っていた。仕事場に電話をして、お風呂に入りたいから早く帰ってきてと急かしていた。
帰ってくるとすぐに浴室に入り、体を洗って湯船につかる。自分よりはるかに体の大きい父が湯船に入って、お風呂のお湯があふれる様子を見てケタケタと笑っていた。
お風呂では父にたくさんの質問をした。
ものはなんで落ちるの?なんで水が鼻に入るとツーンとするの?なんで血は固まるの?なんで水はあっためると消えるの?人はなんで生きているの?
父は自分の知識の限りを尽くして教えてくれたが、難しい話や目に見えない話は説明を聞いても納得できず、何度も質問を繰り返していた。
お風呂の中のぼくのように、子供はみなある日突然「ナンデナンデ星人」になる。
わからないことばかりの世界に限りなくある不思議を、大人なら知っているだろうと、ナンデナンデ?と容赦なく質問を浴びせる。答えても答えてもナンデナンデと襲いかかってくる彼らは、やはり侵略を試みる宇宙人のようだ。
なんで?はどんな答えにも切り返せるもっともシンプルで、もっとも強力な言葉の剣なので、ナンデナンデ星人たちは大人をその剣できりきり舞いにさせる。
NHKラジオの夏の風物詩「子ども科学電話相談」を聞くと、大人もハッとするような純粋な疑問が次々とナンデナンデ星人から投げかけられる。
こういった番組に大人がふれると、次の二つのような感想を口にすることが多い。それは、子供にしかできない発想に驚くものと、大人は純粋な疑問を持てなくなっていることへの気づきだ。
かつては自分たちもナンデナンデ星人であったはずなのに、星人たちを自分とは別の星の住人のように感じたり、自分がもはや星の住人ではなくなっていることに気が付いたりするのだ。前者は子供をほめる際に、後者は大人たちを戒めるときに語られることが多い。
でも、本当はそんなことないんじゃないかな、と思う。子供と大人の境目はとてもあいまいだし、子供のようにはしゃぐ大人もたくさんいる。それに、身近に思えることに対して疑問を持つという意味では、大人もナンデナンデ?をたくさん持っている。
働いているひとなら、なんで働くんだろう?恋に破れた人なら、なんで人は恋をするのだろう?髪の毛が抜け始めたら、なんで人ははげるのだろう?戦争の時代を生きれば、なんで人は仲良く暮らせないのだろう?家族や友達をなくせば、なんで人は死ぬのだろう?なんで?なんで?なんで…?
大人になっていくにつれて、考えても仕方のないことや、一見して価値のないものに対しての問いは考えなくなる。それは、新たなわからない出来事を考える脳みその力を確保するためだから仕方ないことなのかもしれない。
一方で、世界から自分に飛び込んでくるものすべてを感じて疑問を持つ、という姿勢を持つ大人たちもいる。彼らは芸術家と呼ばれたりする。大人になっても子供のような姿勢でいられる、ということを彼らは教えてくれる。
ナンデナンデ?と思う気持ちは次から次へと出てくる。子供のころ、大人になったらわかるのかなと思っていたことも多くはわからないままだ。ナンデナンデ?は尽きない。
わからなかったことがわかって、次のナンデナンデ?につながることもある。何かを極める人というのは、目には見えない価値を生み出すためにそれを続けられる人たちだと思う。すべての学びのもとだから、ナンデナンデは人が生きていくのに欠かせない。
ナンデナンデ?に答え続けるのはとても体力がいる。でも、子供達はそれに答えてくれる人から学び、成長出来ることを教えてくれる。子供にとってはそれは身近な大人だったりするけれど、大人にもそんな存在はいる。先生、本、歴史、宗教、科学、誰から・何から教わるのも自由だ。自分が納得がいくまで、ずっとナンデナンデ?と繰り返していけばいい。
人はみな、わからないことにはナンデナンデといわずにはいられない。
ワレワレハ、ナンデナンデ星人ダ。
素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。