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ふさわしさの前に反射したい 日記#10

雨。原宿の、駅と国立競技場が見渡せるカフェのテラスにいる。最近まで「愛の不時着展」をやっていた建物に、ルイヴィトンの新しいサイネージが光っている。雨は細やかだけど空気は冷たくて、私はポンチョのフードを目深に被って、今季の文藝をぱらぱらと捲る。フードを被って、マスクをして俯いたら、もう本当に1人の部屋で雨音を聞いているみたい。自分しかいない世界。ポンチョ1枚隔てた外は雨。

昨日の夜、久しぶりの友達と電話した。電話自体は久しぶりどころか初めてだったし、かけようと思ってトーク履歴を見たらこれまでテキストですら一言も喋っていなかった。2年7ヶ月前に亡くした弟さんのことをfacebookに書いていて、合う言葉がひとつもないけど、"いいね"だけじゃない思いがあることだけわかっていてほしい、ということをしどろもどろに話したら「無理に言語化しようとしなくていいよ」と言われた。最後は沖縄の話と、お互いの仕事の話と。私と関係なく考えていた問題と、私が手を動かしている毎日が接続していることは、嬉しい。けれど、突き詰めて考えようとする人には、心底虚しい仕事なんだという話も、散々聞いてもらってしまった。

忙しくて楽しい毎日を過ごしている。企画を思いつくことをまずは目指していたけれど、社会の終わらない問題の方を向きながら企画を発想することが、最近というか本当にここ数日の間に、少し掴めてきたような気がしている。ほんと単純に、困っている人や悲しい人がみんないなくなるようにしたい。

「隣人が困っていたら、何はともあれ手を差し伸べる、ではなく、援助を受けるにふさわしいかの判定が先、それを是とする空気が日本社会にはあります。」(津田篤太郎)文藝夏号「非常時の手紙」より

新今宮の記事、炎上する前に読んでいて、なんとなく気分が悪くてページを閉じた。考え直すことをしていない間に行政のPR案件だったと発覚して、炎上した。ああいう、数日で評価がガラリと変わるぐらいの瀬戸際にあるものを、日々量産している現場にいる感覚がある。もっとアクティブにやりたいことがあるのに、そういうものが世に出ることを食い止めていたら、ダムとして一生を終えそうなぐらい。それくらい、放っておいたら不幸は消費されるし、抵抗しない間に不遇は感動の皮を被せられてしまう。そして私だって例外じゃなくて、きっと紙一重の上を渡り歩いている。たぶん、それを分かつのは事象そのものじゃなくて、紙一枚分の道を歩いてることを忘れたときに、ああいうものが世に出てしまう。「知識も経験も本当に足りないんだけど、分かってるけど、危うさだけは忘れないと約束するから私にやらせてほしいと思う」そう言い続けるためのことをし続けないといけない。

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