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誰からもなにも問い詰められない世界に移り住みたい

「生きてるだけで価値がある」なんて建前で人を無条件に包み込むようなふりをして、

建前だけはご立派な世間は、今日もわたしを質問攻めにする。

「どうしてこの会社に入ったの」「どうして大学をやめたの?」「なにが得意?」「どんな番組がつくりたいのか君からは全く見えてこないけど」「何が好きで、大学では何を学んできたの」「それはなんで?どうして?」

………… 「なんでこんなところで、あなたが生きてるの?」

調子がよくないときは特にだけど、これらは全部、わたしの耳にはこう聞こえる。

「生きてるだけで〜」なんて大嘘もいいところで、わたしたちは「生きてる限り」自分の存在の意味を示し続けなければならない。ようにできている。

———— 英語が話せます。有名な大学に行きました。コードが書けます。ギャグができます。誰とでも仲良くなれます。歴史の知識があります。行動力は誰にも負けません。崇高な人生の目標があります。

「あなたの替えは五万といます。その中であなたでなければならない理由を、それも今すぐ簡潔に、見せてください」という、非人間的であまりに乱暴な要求に、必死に抗うことでしか生を認めてもらえない。

選びもしないで生まれてきたのに生きる理由がわかっていて、何に向かって進んでいくのかに揺らぎもしなくて、断言できるほどの変わらない自信もある、そんな人がどれほどいるんだろうか。発信しないと頭の中が空っぽであるのと同義とされ、知りきっていないと発信すらしてはいけない。その矛盾の中で、手っ取り早く相手を掌握した気になろうとする乱暴な質問に晒され続けるうちに、日々首が絞められ、息ができなくなっていく。

証明できなきゃ、素朴に「好き」だと言う権利も与えてくれないくせに。

うっかり映画が好きだなんて言ってしまったが最後、いわゆる「映画好き」が知ってて当然のラインナップは一通り見ていなきゃ話にならないし、少し深掘りして知識が追いつかなかったらそんなもの「好き」に値しないというジャッジが即刻下される。

初めて立ち寄ってみた、自分は知らなかったけど有名な画家の絵を、感情が動いたままに「好きだった」と表現することや、うまく言葉にできないけれど、自分はきっとこんなようなことがしていきたい、という曖昧な決意を、探し途中で当たり前の人生の、今という時点では「まだわからない」というごく自然の答えを、していいゆとりは、この世界にはないんだろうか。

今週もまたゴミが回収される時間に起きられなかった自分に絶望しながら目を覚まして、仕事の焦りが頭の片隅を常に占めている憂鬱を抱えながら会期終了前日の大哺乳類展に友だちと駆け込んで、ゾウアザラシの骨格標本に度肝を抜かれ、鯨偶蹄目という初めて聞く言葉の響きが気に入って、誕生日プレゼントに絵を初めて絵を貰ったことに心を躍らせながら帰路について、急ぎだった宅配物の届け先を実家にしてしまったことに気づいて絶望する自分のいる場所は、ここにあるんだろうか。

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