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曇りの朝に生まれ落ちた話

 冬子がアルマジロになりたいと告げた時、彼女の父は当然反対した。一度何か別のものに変身すると、もう戻ることはできない。人間以外のものになる選択をするというのは、同時に、家族と永遠にその縁を断たれるということだ。父のマンフレートは思わず節くれだった両手で自分の顔を覆った。冬子の決意が固いことは、彼にはもう分かっていた。女子高生だった頃にドイツ民族の男に変身した身である彼に、冬子の変身を止める権利などないということも。
 変身の前にマンフレートに告げたのは、冬子なりの父への誠意だったのだろう。マンフレートにとってはそれが余計に辛かったのだ。彼は30年前の朝を思い出していた。望んでやまなかった姿になっている自分と、自分の姿を見て絶叫する母のことだ。折悪しく、その日の朝食はジャーマンポテトだった。
「私はパパの言葉が好き」
 冬子は泣く子を諭すような声で言った。
「とても優しいから。でも少し硬いの。丸まっているアルマジロみたい。だから私、アルマジロになろうと思ったの。ね、だからもう少しお話しましょう。これが最後なのよ」
 マンフレートの、樫の枝のような指の隙間から透明な雫がにじみ出た。鼻を真っ赤にしながら彼は、テーブルの上の箱からティッシュペーパーを3枚繰り出し、丸めて目の周りを拭いた。

 そして雪緒は自分のしゃくり上げるような泣き声で目を覚ました。目が充血して、頬が濡れているのが分かった。鼻の内側が熱かった。
 右手をのろのろと動かして涙を拭き、自分がベッドの上に横になっていることに気づいてからもしばらく、呆然と天井を見上げていた。ずずずと鼻をすすった。明晰な思考が始まらないまま、号泣した後の、顔の内側が溺れたような感覚を、部屋のしらじらとした空気で冷ました。
「マンフレート」
 そう呟いた。声に出しておかないと、自分の大切な何かが急速に遠ざかってしまうように感じた。実際、さっきまで見ていた夢の情景は、一滴の絵の具が水に溶けていくようにどんどん薄まりつつあった。
「冬子」
 どちらも知らない名前だ。知り合いの名前でもないし、テレビや本で見たわけでもない。なぜこの名前、あの二人だったのだろう。
 雪緒はうなりながら寝返りを打った。湿った鼻を枕に半分埋めて、薄く目を閉じ、さっきまで見ていた夢を反芻した。
 アルマジロだけは覚えがある。昨日、寝る前に予習したのだ。目はほとんど見えず、匂いを頼りに暮らしていると動物園のウェブページに書いてあった。今日、そのアルマジロを見に行く日だった。
 目を開けながら仰向けの体勢に戻って、反対側の枕元に置いてあるスマートフォンを手にとった。8:22と表示されている。予定の起床時間よりだいぶ早い。
「いいか、起きよう」
 誰にともなく雪緒はつぶやいた。脳裏には、冬子の穏やかな笑顔が、ピンぼけした写真のようにその印象だけを薄く張り付けていた。

 シャツの上に首の詰まったセーターを着て、色の濃いジーンズを履いて外に出ると、ゆるく風が吹いていた。葉を枯らす匂いだ、と雪緒は何の根拠もなく思った。
 スエードのスニーカーでアスファルトをこすり、空気の匂いをかぎながら、すれ違う人の格好や表情をさりげなく観察した。雪緒は、自分がこの世界を生きていることをちらちらと確かめながら歩いていた。コンビニの中を覗いたら、金髪の男がおにぎりを一つだけ買うところだった。
(マンフレート)
 雪緒はその名前をまた頭の中で反復した。懐かしい友人の名を呼ぶような郷愁があった。
 起きてからしばらく時間が経って、雪緒はその夢に至るまでの、もっととりとめのない夢の連続も少し思い出していた。だからあの夢が、自分の記憶のゴミとしての、単なる脳の生理現象だということは分かっている。
 でも、自分が本当にマンフレートでなかった保証なんてどこにあるだろう。娘の告白に途方に暮れる本当の自分を置き去りにして、この世に雪緒として生まれ直してきて、何かの間違いでその記憶が寝ている間に蘇ったのかもしれない。そうではないという保証なんて誰ができるのだろう。
 雪緒は、これから一緒にアルマジロを見に行く人の顔を思い浮かべた。この夢の話をしようか、と考え、引かれるからやっぱりやめようとすぐに思い直した。
 大好きなアルマジロを眺めるその人の、端麗な横顔ときらきらした目を想像する。自分は見とれてしまうだろう。何か気の利いたことを言えるだろうか。今日こそは手を繋ごう。

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