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花火尽きてから話をしよう

 公園には遊んでいる子供が二人だけいて、先客はなかった。僕たちはベンチのそばの場所を選んでバケツに水を入れて置き、花火セットをベンチの上に置いて各々作業を始めた。
 まだ日は暮れていないが、夕方の風はすでに涼しく、乾いた秋の匂いが混じっている。
「風があるとロウソクが心配だな」
 花火セットの中のちゃちなロウソクとロウソク立てを地面に置きながら僕が言うと、彼女は「穴を掘って入れればいいんだよ」と予想外のことを言った。
「穴?」
「だからこうやって――」
 彼女はそのへんに落ちていた枝を拾い、しゃがみこんで地面に突き刺すように振り下ろした。アイスピックで氷を削るバーテンダーみたいな動きだった。何度かその動きを繰り返して納得のいく穴ができると、「はい、貸して」と僕の手からロウソク立てをぶんどってぐりぐりと詰め込んだ。
「これで大丈夫」
 人差し指がまるごと入るくらいの深い穴が公園の地面に空いていた。底にはめ込んだロウソク立てにロウソクを置くと、ぴったりロウソクの背丈と合う。
「すごいな……」
「小さい頃にね、従兄弟とよく花火してたの。一番上のお兄ちゃんが、こうやって地面に穴開けてロウソク立ててくれたんだよね」
「その従兄弟に感謝だね」
 彼女はロングワンピースの裾を両手で払って、ベンチに置いたコンビニのビニール袋をごそごそと探った。
「よし、はじめましょ」
 彼女の手には缶ビールがあった。

 筒先をロウソクの火にやって着火するまでの時間、公園は森閑として、遠くの道路を車が走る音や、茂みの鈴虫が鳴く声が聞こえた。あたりは暗くなり、公園には僕と彼女の二人だけになった。
「火、ちょうだい」
 彼女は左手に缶ビールを持ったまま、オレンジ色の火を噴き出す僕の花火に自分の花火を近づけた。筒先が触れ合い、彼女の花火からもパチパチと八重二十重の火花が散った。
 僕たちの口数は少なく、ときどきビールを飲みながら淡々と花火に火をつけていった。彼女は時々花火を振り回して、残像で字を書くような動きをしたが何と書いたのかは分からなかった。
「今、なんて書いたの?」
「え? 振り回してただけ」
「なんだそれ」
 たぶん本当にそうなのだと思う。僕は笑って、それからは彼女が花火を空中に振っても何も尋ねなかった。

 残りの花火も少なくなってきたころ、ビールが先になくなった。
「やっぱり一缶じゃ足りなかったね」
 そう言って彼女が未練がましく空の缶に口づけして傾けるのを見て、僕はふいに胸を締め付けるものを感じた。それは心臓をきつく絞って、頭の中をゆさぶった。
 今まで一度もこんな風になったことはなかった。なんでこんな訳のわからないタイミングで。
「ビール、買ってこようか」
 なんとか声を絞り出して僕が言うと、彼女は「ううん」と首を振った。
「大丈夫。もうすぐ線香花火だし」
 小さくなったロウソクは穴に隠れ、空気を取り入れるために広げた穴はもう握りこぶしが入るくらいの大きさになっていた。
 身をかがめて花火に火が点くのを待っていた彼女の顔が、花火の光にぱっと照らされた。目を細め、口元を緩ませながら二、三歩ステップを踏み、手の先から噴き出す光の柱を見つめる彼女に、膨らんだワンピースの布地がふわりと追いつく。
 一瞬の表情や、光景が、この夜の匂いごと僕の身体に焼き付くように感じられた。もがくような気持ちで僕は花火に火を点けた。
 最後の一本にあたったのは僕で、彼女は僕がその花火を燃やすのをそばで見ていた。燃え尽きた花火をバケツに放るとジュッと鳴いた。
「残るは線香花火」
 彼女が言って、線香花火の束が僕らの前に置かれた。

 二人でやるには十本の線香花火は多すぎて、それでも律儀に僕らはすべての花火を消化していった。ロウソクを入れた穴を囲んでしゃがみこみ、一本ずつ、ふたりとも燃え尽きるまで待ってから次の花火にとりかかった。
 最後の二本になったとき、どちらともなく、お互いの呼吸が整うのを待ってから同時に火をつけようとした。ロウソクの小さな火をめがけて、糸のような線香花火の先端が降りる。ほとんど同時に火はそれらを舐めた。
 風が吹いた。
「あ」
 二人の声が重なり、彼女はくすくすと笑った。着火した二本の線香花火の先端同士が、くっついて一つの火球になっていた。
「こんなことあるんだ」
「どうしようこれ。腕痛いんだけど」
 僕たちは線香花火を持つ手を震わせないように、なるべく静かに笑い合った。互いの身体の先端に、いま細く頼りない糸があり、その先は繋がって一つの火が燃えている。曼珠沙華の花弁にも似た光の線の束が現れては消え、僕に何かを語りかける。
 僕は目だけを動かして彼女を見た。目を伏せた彼女の顔が明滅する光に浮かび上がり、薄く笑んだ口元がわずかに動くのが見えた。
「あー、もうおわっちゃう」
 小さく、彼女は独り言のように言った。
 そして本当に、その直後に線香花火は終わった。美しい光の花を瞬時に咲かせながら、僕らの手から離れて地面に開けた穴に落ちていった。前兆のない最後だった。
 夜闇の中で、ちびたロウソクの光だけが小さく揺れている。
 僕たちに残された花火は、もうない。
「終わっちゃったね」
 彼女は、そう言って立ち上がった。
 僕も立ち上がる。
「あ、ロウソク。消さないと」
 彼女が地面を指差した。僕はもう一度地面に屈んで、ロウソクの火を吹き消した。穴に手を突っ込んで、アルミでできたロウソク立てをつまんで地面に置いた。まだ熱い。
 彼女は再び立ち上がった僕を見て言った。
「ありがとうね、楽しかった」
「うん。楽しかったよ。――花火ができて、よかった」
 何を言えばいいのかわからず、当たり前のことしか言えない。不思議と僕は落ち着いていて、手持ち花火をしていた時のような動揺はもうほとんどなかった。ただ、胸を締め付ける何かだけが消えずに残っていた。
 僕たちは、無言のまま片付けをはじめた。バケツの水を排水溝に流し、残った花火の殻とロウソクをゴミ箱に捨てる。
 潰したビールの缶を捨てるとき、彼女がだしぬけに口を開いた。
「やっぱ、足りなかったよね」
 僕は笑って、「二缶か、三缶くらいは買っても飲めたかもね」と答えた。
「ちがうよ」
 がたん、と、缶がゴミ箱の中に落ちて、先に捨てられたいくつもの缶とぶつかる音がした。
「ビールの話じゃなくて」
 彼女は鼻をすすった。夏はもう死にかけていて、その夜は少し冷えた。

 公園のベンチに座って缶ビールを飲みながら、僕は花火を楽しむ子どもたちを眺めていた。妻はその中に混じって動画を撮るのに夢中だ。
「火遊びもたまにはいいですね」
 人のいい笑みを浮かべながら、田代さんが隣に座る。手にはコンビニの袋があった。
「はしゃげるうちはね」
「おっしゃるとおり。……さけるチーズ食べます? 子供に見つかる前に食べないと」
 いただきます、と答えて僕は田代さんからチーズを受け取った。まめに学校行事に顔を出す父親は少ないが、田代さんはその一人だった。シングルファザーなのだ。歳が近いこともあり、僕たちはすぐに意気投合した。
「夏も終わりますねぇ」
 田代さんはプシュッと缶ビールのプルタブを起こし、僕の手の中の缶ビールに軽くぶつけた。気分良く酒を飲むのが、彼の好きなところだった。
「今年は暑かったですね。この分だとしばらく暑いでしょうね」
「そうですね。夜も全然冷えない」
 僕は缶ビールを飲み干し、すぐそばの缶用のゴミ箱に投げ入れた。がたん、と、缶がゴミ箱の中に落ちて、先に捨てられたいくつもの缶とぶつかる音がした。
 ふいに、僕の耳にあの声が蘇った。
 夢を見ていたような季節。
 最後に燃やした花火のこと。
 今ではもう、彼女のことを思い出す瞬間は少ない。きっとどこかで生きている彼女にとって、僕が、あの夜が、どのように消化されているのかもわからない。
 でもこうして、夏の終わりの夜の公園で、ビールを飲みながら花火をしている時くらいは、僕と同じようにあの夜のことを思い出すことがあるのだろうか。たった一度、同じ火を分け合った日のことを。
 僕は田代さんにお礼を言って、コンビニの袋から缶ビールを取り出した。プシュッとプルタブを起こし、田代さんの手の中にある缶にぶつけて口につけて傾けた。苦く冷たいビールは、あのときと同じ味だ。

illustrated by カトウトモカ(@okaca_)

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