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読書まとめ『天才の光と影』(高橋昌一郎著)

 今回ご紹介するのは、高橋昌一郎先生の『天才の光と影』です。わたしは大学時代によく高橋先生の授業を受けていました。土曜日の昼過ぎ3限目の授業を取っていたとき、先生が最初に話すひとことはいつも、「君たちはえらい。なぜなら、ほかの学生がディズニーランドで遊んでいるような時間に、こうして授業に出ているのだから」とおっしゃっていたことを覚えています。わたしもそのえらい学生のひとりでした。えっへん(笑)
 先生の授業はとてもおもしろくて人気で、200人近くの学生が受けていた授業もありました。授業の教科書として使われていた先生のご著書も、もちろんどれもおもしろいです。今回ご紹介する新刊もとっても楽しく読ませていただいたので、かんたんではありますが感想をまとめます。

本書全体の感想

 わたしは学生時代に高橋昌一郎先生の授業を受けていました。先生の授業はほかの学生とディベートをする形式の授業で、テーマは「人はなぜ騙されるのか」「愛とは何か」「命の尊厳をどう教育するか」など、決して人ごとにはできない身近な題材から、論理学や哲学を学ぶことができ、毎回の授業を楽しみにしていました。学部を問わず受けられる授業だったため、自分とは異なる学問を志す人たちの見解を聞けたことも楽しかったです。知的刺激をたくさん得られました。

 これまでも高橋先生のご著書はたくさん読んできましたが、先生のご著書すべてに共通するおもしろさは、さまざまな視点や切り口からそれぞれの事象や人物を見ることができる点です。今回も、ノーベル賞を受賞するような天才たちの輝かしい功績だけでなく、嫉妬、堕落、神経症的病、女性問題など、影の部分も描いている点がとても興味深かったです。 光だけでなく「影」にも焦点をあてている点が、高橋先生ならではの切り口だと思います。
 天才たちがカルトや科学的に立証できないような現象をかんたんに妄信してしまう様子を読み、「天才なのに、そんなかんたんに騙されて、アホちゃう? 天才たちみんな、高橋先生の論理学の授業を受けて、思考力を鍛えたほうがいいのでは?」と思いながら読んでいました(笑)

 また、高橋先生のどのご著書もそうですが、参考にされている文献の多さには、 いつも驚かされます。本書では、天才たちの幼少期や学生時代、恋愛、家族のことまで詳細に書かれています。彼らの生活・人柄・考えが鮮やかにイメージできたのは、高橋先生が膨大な文献を調査されたからこそだと感じました。当然ですが、参考文献のなかには日本語訳されていないものもあったでしょうし、もしかすると、英訳すらなく、ドイツ語やフランス語などで書かれていた文献もあったのではないでしょうか。言語も分野もさまざまで膨大な量の文献を読み解き、この一冊にわかりやすくまとめられたことに、感服いたします。

天才を天才たらしめる所以

 天才が天才になりうる所以は「知的好奇心」のひとことに尽きるように思えます。天才はみながみな、エリート一家に生まれ、幼いころから英才教育を受けていたわけではありませんでした。貧しい家庭に生まれた天才も、ワイシャツ製造会社の営業マンの息子として生まれた天才も、親から大学進学を反対された天才もいました。そんな彼らが天才になりえた所以は、「知的好奇心」にあるのではないかと思います。天才たちは幼少期から、気になったことはとことん自分で調べる、教えを乞うということを繰り返していたのです。 彼らは、 数学や化学や物理学や生物学がとにかく大好きで、学ぶことにこの上ない楽しさを感じていたのではないかと思います。その知的好奇心こそが彼らを天才へとならしめたのではないでしょうか。まさに、「好きこそものの上手なれ」、「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者(論語より)」ですね。本書を通じて、自分の好きなことを貫くことは大切だと改めて感じました。自分の知的好奇心を信じ、好きなことに没頭する生き方をしてみたいものです。

研究者は社会に何をもたらすのか

 わたし個人の考えですが、 わたしは、 必ずしも「社会のために」という思いを学問に持ち込まなくてもいいと思っています。本書に出てくる天才たちのように、「好きだから」 「おもしろいから」 「知りたくて仕方ないから」 にもとづく研究動機・学習動機でも、別にかまわないと思っているのです。学ぶことが必ずしも実学的でなくてもかまわないと思っていますし、何を研究するかは当人の自由です。
 ただ一方で、学問を志す人は、学問と社会は切っても切り離せない関係にあるということを忘れてはならないとも思います。学問は必ずどこかで社会と繋がっていて、社会に何らかの影響をもたらします。研究の成果として生み出された知が、結果的に社会を不幸にさせるものであってはならないと思います。研究者は社会に対して責任を負うべきではないか、というのがわたしの考えです。

 本書では、ナチスに加担して殺戮兵器の開発に協力した天才や、カルトを妄信し、ノーベル賞受賞者という立場を利用して、学問にカルトを持ち込もうとした天才、人種差別を正当化した天才などが登場します。栄誉ある研究者たちが欺瞞や妄信に陥り、学問を利用して、社会に悪い影響をもたらしてしまった事実があることが残念でなりません。研究者は、みな、「この研究は社会にどのような影響をもたらすのか」「正しさとは何か」「学問とはどうあるべきか」ということを考える必要があるのではないでしょうか。 わたしは、 学問は社会の最後の拠りどころであると思っています。 学問があるから社会の発展があるし、人を幸せにするのも人を不幸にするのも学問なのです。 そのため、学問に自分勝手な心情やカルトを持ち込んだり、自分の理想のために学問を悪用したりすることは、決してあってはなりません。 学問は、常に信頼できるものであるからこそ、社会の拠りどころになります。研究者がどのような研究をしようと自由ですが、学問を守っていくという使命は忘れてはならないと思います。

 わたしは学生時代に高橋先生の授業をいくつも受けていましたが、授業ではいつも「諸君はどう思うか」「諸君は何が正しいと思うか」が問われていました。それが高橋先生の授業の特徴であり、おもしろさだと思います。授業では、先生のお話を聞く時間と同じくらい、自分で考える時間やほかの学生の考えを聞く時間が多く設けられていました。これはわたしの推測に過ぎませんが、高橋先生は、単に知識や思考力を身につけるだけでなく、「さて、それを身につけた諸君は、どう生きるのか?」というメッセージを、 暗に伝えていたのではないでしょうか。高橋先生は、深く考える力を学生たちに養ってほしかったのだと、 わたしは推測しています。
 堕落してしまった天才たちは、どれほど優秀で知的で思考力があっても、その「深く考える力」が欠けていたのかもしれません。やはり、天才たちはみな、高橋先生の授業を受けるべきでした(笑)

興味のある方は、ぜひ、お手に取ってみてください。

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