見出し画像

美と向き合うあなたに伝えたいこと

私は、自分の名前に「美」という漢字が入っています。

小学生の頃、それぞれ漢字は意味を持っていると知ってから、自分の名前が好きになりました。当時から美しいものが好きで、自分も美しくありたいという思いが、幼いながらにあったからです。

そして今でも私にとって、美しいと感じることは生きる上で必要不可欠です。多くの人がそうかもしれませんが、その感覚が強いような気がするのは、昔から「美」に対する思い入れがあるからかもしれません。

ここまで話すと、筆者はいわゆる美意識高い系の人間で、そういう話が始まると思われたかもしれませんが…そうではありません。

筆者もメイクやファッションが好きですが、ここでは外見における美に限らず、もっと広義の美についてお話ししようと思っています。


美しいと感じることは、どういうことか

近年「美しさの定義は人それぞれ」という文脈で、何事も語られることが多くなっています。

それは、美しいと感じることは主観的であるということでもあり、例えば「美しい花は何か」と聞かれたとき、バラと答える人もいれば、サクラと答える人もいる。他にも、ヒマワリ、タンポポ…と挙げられるかもしれない。そのような捉え方です。

しかし本当に「主観的」だけで成り立っているかというと、そうではないと感じるのではないでしょうか。

例えば、プラトンたちが活躍した古代ギリシャには、黄金比のような数比や秩序に美を見出せるという考えがありました。美は人それぞれの価値観ではなく、普遍的な価値として実在すると考えられていたのです。

また、近代の哲学者カントは、何に美を感じるかは主観的だという一方で、完全に個々人の主観に閉じたものというわけではないと主張します。何か美しい風景を前にしたとき、隣にいる人に「キレイだね〜」などと言ったことはありませんか?美しさの判断には、他の人にも「美しいですね」と求める、一種の普遍性(主観的普遍性)があります。

最近は「思想」という意味に近い形で「◯◯の美学」という言葉も使われやすくなっていますが、「『美とは何か』の答えは人それぞれ」ではなく、むしろ美の本質に向かって研究できるのが、学問としての美学なのです。


学生と行った美学探究

今度は、筆者は美学を研究している人なのか…と思われるかもしれませんが、まだまだ勉強し始めたばかりの人間です。

私はCOLOR Againというプロジェクトに、今年度からジョインしたメンバーの一人です。本プロジェクトは、昨年度から渋谷教育学園渋谷高等学校(以下、渋渋)の有志学生に対して教育プログラムを提供しており、「自分の感性に自信を持ち、社会に向けて行動を起こすこと」を目標に、哲学対話や展示鑑賞、文献講読を通じて、学生を主体とした展覧会をつくり上げようとしています。

昨年度は企画展「Feel&Think」を実施

また、哲学対話や美学講座の実施をクロス・フィロソフィーズ株式会社の吉田幸司氏に協力していただき、昨年9月から学生と美学探求を続けてきました。この探究は、学生が展覧会に向けたそれぞれの企画を考える中で、自身の考えを確立するために、文献講読や講義を通じて美学の基礎を学びながら、浮かんでくる問いをテーマに対話をするといった内容です。

私はあくまでサポートする立場ですが、学生のみなさんが美学探求を進めていく中で、私も「美しいとはどういうことなのか、どうあるべきか」を考える機会になりました。

冒頭で話した通り、美しいものが好きで自分もそうありたいと思っていた、自身の考えを振り返ってみました。


美しさは努力の道しるべになってくれる

美しさとは様々なものに存在し、様々な文脈で語られます。容姿の美しさとして語られることもあれば、建築や文化、音楽や芸術の中でもあり、挙げようとしたらキリがありません。

ただ、一つ言えること。それは、何かその一つの分野で努力しようとするとき、美しさは努力する上で、道しるべになってくれると思う。

私は長年ダンスをやっている中で、ちゃんと始める前はYouTubeなどを見よう見まねでコピーしていましたが、やはりプロダンサーのレッスンに通うようになってからは、上達のスピードが上がったり、ダンスの中でも特に極めたいジャンルや好きなダンサーが明確になっていきました。
自己満足では終わらず、「このダンサーさんに教わって自分もこんな風に踊れるようになりたい」と決まれば、努力が捗って成長します。

筆者がダンスをするときに使っているヒール

学生の対話の中でも「可愛くなりたい」と思ったときに、様々な手段でやり方を調べてメイクを練習することを繰り返しているうちに、友達から褒められるようになったというエピソードがありました。

自分を変えることができるのは、何事にも美しさが存在するからこそ

美しさは、何かを学ぶときの基礎にもなり、目標にもなります。もし美しさが存在しなければ、どこに向かって進んでいけばいいのか分からなくなると、私は思います。

もしくは、特に美しさを気にせずにいられるときは、自己満足でよいと思えているときであって(決して悪いことではありません)、自分が考えたものや表現したものを「他の人にも共有したい!」と自分の中で完結しないものになったときには、美しさを気にせずにはいられなくなるということではないかと、美学の基礎を学ぶ中で私は考えました。


今までとは違う自分を許すこと

しかし、何か一つの美しさに向かって走り続けていると、自分は今どう感じているかに対して鈍くなってしまうことがあるとも思うのです。

最初は美しさに惹かれてワクワクしていたはずが、「自分はその美しさにはなれない」とギャップを感じて行き詰まり、美しさはいつしか夢を見させてくれるものではなく、現実を突きつける存在にもなります。
それは、もちろん誰ひとりとして完璧な存在ではないし、もしロールモデルとする人がいたとしても自分とその人は別人だから、理想像と現実にギャップが生まれるのも当然です。

その差ばかりに目が行ったり、自分自身が変化しているにも関わらず、ただ走り続けることが当たり前になっていると、自分の感じていることは二の次になり、新しいことを受け入れる余裕もなくなってきます。

例えば、先ほどエピソードに挙げた学生は、可愛くなるための研究をし続けた結果、次は何をしたらいいか分からなくなったり、可愛さを更新していかなければならないような気持ちになったこともあると語ってくれました。確かに最近は、可愛くなるため、垢抜けるための条件が次々と追加されてキリがなく、ひたすらそれをクリアし続けようとすれば、「〜でなければならない」という義務感や焦燥感を持ち始める人も出てきているように感じます。

そして私も、学生時代ある一人のダンサーさんのレッスンにずっと通っていましたが、コロナ禍と社会人になるというイベントが起こったことで、なぜか今までの自分の踊り方がしっくり来なくなり、どう踊ったらいいのかも分からなくなってしまったときがありました。
踊りは信念や想いが表れるものなので、自分の中で価値観が変化したことで、今まで目指してきた像に違和感を感じるようになったのです。

たくさん悩んだ中、道を開くことができたのは
「今までとは違う自分を許すこと」ができたから。

ずっとそのダンサーさんにお世話になっているな、そこでのコミュニティがあるな、自分の色を出せる踊り方だったのにな、単純に下手になっただけなのかな、ここで道を変えようとするのは私だけ根性なしなのかもしれない…そういったものが、自分の中での固定観念でした。そこから外れることは勇気が必要です。

でも、大好きなダンスにこのまま違和感を持ち続けることが嫌で、いつかやってみたかった別のジャンルに切り替え、他のダンサーさんのレッスンに通い始めてみたことで状況が変わりました。


自分に広がっていた可能性を解放する

ジャンルを変えると、はじめはダンス初心者に戻ったくらい踊れなかったですが、不思議と違和感は消えました。

今まで目指していた美しさとは違う自分になることを許せたおかげで、
新たな可能性が拓けてきた。

そして今では、2つのジャンルを同時に続けていますが、あの時あの選択ができたからこそ、そのまま違和感を無視し続けていたらきっとできなかった踊り方を、今はでき始めている実感があります。

ある意味美しさは、そこに近づこうとすれば、私たちにはたくさんの選択肢が広がっていることを忘れさせるくらいの輝きとパワーを発揮してくると思うのです。そうなったとき、自分には選択肢があり、まだ見ぬ可能性が広がっているということに自分が気づけるかどうか。

今まで目指してきたものに対する執着を捨て、虚栄心も捨て、自分が感じていることに素直になれたとき初めて、人はその人にしか生むことのできない、新しい選択肢を創造できるのではないかと思っています。

もし何かを頑張って続けていて、行き詰まりや違和感を感じたときは、「これは可能性を広げようとしている、自分からのサインかもしれない」と思い出してみてください。自分の本音は何か、真剣に向き合うことができれば、きっとそこから新たな世界が見えてくるはずです。


おわりに

ここでは、筆者が渋渋生の美学探究に携わる中で感じたことを話させてもらいましたが、話を戻すとCOLOR Againが提供する教育プログラムの主体は学生です。

そして1/28(日)は、 学生の企画を展示する「私だけかもしれない、けど。」を下北沢の砂箱にて開催します。

そこでは、学生の企画を展示するとともに、美学探究の成果の一つとして、対話の中で浮かんだ問いや発言の一部を掲示する予定です。

社会貢献活動に取り組むというのは、私たち自身がうまく言葉にできない、日々のもやもやした気持ちに向き合うことからはじめることかもしれません。

今回の展覧会「私だけかもしれない、けど。」では、そのような大切な感覚を手放さずに、小さくても形にすることに挑戦した学生たちの企画になっています。

ぜひ見に来ていただけたら嬉しいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?