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「変形バージョンの愛」が我が家の育児を支えている

我が家には双子の娘たちがいる。こう話すと「大変でしょう?よく頑張っているね」と声をかけてくれる人がいる。

双子でも双子でなくても育児は大変なものだと思うけれど、一度にふたりの面倒を見るのにパニックになったことはある。娘たちが乳児だった頃、私は何度か、抱っことおんぶを同時にしながら泣いた。

我が家の育児には、夫との連携が欠かせない。娘たちの世話は私が中心となっておこなっているのだけれど、夫も積極的に育児参加している。仕事が多忙な彼は、どうしてもサブ的な立ち位置になりがちなことを嘆いているくらいだ。

週に何回か、私がリフレッシュのために出かけるときは夫が娘たちと待っていてくれる。娘たちが幼稚園に持っていくふたつの水筒を洗うのは、夫の日課だ。

そんな夫とは愛情でつながっているのか?と聞かれると、少し困ってしまう。かつて私が考えていた「愛」とは少し違うような気がするのだ。

若い頃の私にとって、愛とは「相手と同化したい」と強く願うことだった。自分の価値観と相手の価値観をできるだけ近づけ、見つめあい、同じ世界を見たいと願っていた。いま思うと狂気じみていたような……。

しかし、私は最初から夫を「同志」的な存在としてとらえていた。彼が、歳に似合わぬ貫禄を備えた人だったからかもしれない。なんとなく、惚れたはれたの騒ぎの外にいる人だった。

結婚が決まると、その傾向は顕著になった。生活をともに過ごす伴侶として、いつか来るかもしれない育児をともに乗り切る伴走者として、彼を認識するようになった。

そのため、私は夫と同化したいと思ったことはない。夫は夫、私は私。そのままで信頼関係を結ぶことを重視していた。「愛憎」「愛執」といった言葉とは無縁の感情がそこにはあった。

実際に育児をするようになってから、夫との関係についてよく考える。狂おしいまでの愛とは縁遠いけれど、私たちは互いに信頼を寄せあって暮らしている。お互いが大切で、他の誰かと交換することはできない。

よく「恋愛と結婚は別ものだ」なんて言うけれど、それと似たことが我が家でも起こっている。恋と愛とが区別されて存在している。

サン・テグジュペリが言った、「愛はお互いをみつめあうことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」という名言に従うなら、私と夫が結んだ絆を愛と呼ぶのだろうか。

いまや私と夫は、娘たちを育てながら幸せに老いるという目標に向かって手を取り合う同志なのだ。昔の私にとっては、「変形バージョンの愛」である。

夫と同化したいとは思わない代わりに、穏やかでボーッとした幸せに包まれる日々。それはそれでなかなかによいものだと、折に触れて感じている。

では、若い頃に私が振り回されていたあの「愛」はどこへいったのだろう。若さが見せた幻なのだろうか……などと考えてみる早春である。

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