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いつかおでこを見るために

このあいだ、長女が白目を剥きそうなほどに眼球を上に向けては首を傾げていた。まぶたが裏返るんじゃないかと思うくらいの上目遣いである。その後、むむむと変な顔をしている。

「なにしてんの」

長女は、はっとしてわたしに向き直った。

「ママ、おでこって自分で見えないね」

わたしは言葉を失った。なんてかわいいんだろうと思ったからだ。大人から見ればバカバカしいことに必死になっている姿が愛おしかった。7歳になったばかりって、まだこういう行動をとるものだろうか。

「自分では見えないとこって、けっこうあるね。背中も見えないしね」とわたしが返したら、長女はちょっと不服そうだ。あれも見たい、これも見たい、の年頃なのだから仕方がないのかもしれない。

わたしも子どもの頃、「あれはなに? これはなに?」と周囲に尋ねたり、「これ見せて! 見たい!」とダダをこねたりしたことがある。この世は知りたいことと見たいものに満ちていた。

でも、ときに大人たちは「これは子どもは知らなくていいの」とか「ふつうの人はそんなこと考えなくていいよ」と答えた(もしかしたら、わたしの周りにいた大人たちだけだったのだろうか)。

とにかく、疑問を打ち砕かれる経験を何度もしてみて、いつしかわたしはうっすらとした諦めを身につけていった。「わからないことはわからないままでええんかもしれへん」と思うようになったのだ。

わたしはいまいち探求的でなく、よろしくない方向にものわかりがいい。なんでもかんでも子ども時代の体験のせいにするのは好きじゃないけれど、少しはそれらの影響があったに違いない。

だから、娘たちが純粋な疑問を抱くのを見たとき、ちょっとまぶしく感じる。わたしがあんなふうに不思議さに向き合う姿勢を失ってしまったのはいつだっただろう、と考えるのだ。

ほんとうはもっと疑いたかった。もっともっと「なんで?」「どうやって?」「見たい」を重ねていきたかった。そこから新しい地平が見えそうな気配をもっともっともっと感じてみたかった。

それなのに、いつのまにか諦めてしまった。

わたしは長女にもう一度言った。

「どうやったらおでこ見えるかなあ」

長女は、軽くうなってから鏡を取り出した。「これなら見えるんやけどねー」とぶつぶつ言いながら、また上目遣いをしている。

わたしは聞いてみた。

「なんでおでこは見えないと思う?」
「目の上にあるからー?」

おでこは見えないんだから諦めなさい。そう言うのはとても簡単で、とても残酷だ。

わたしはできた母親ではないから、娘たちをうまく導くことなんてできはしない。それでも、彼女たちが「おでこを見てやる!」と意気込んだら、いっしょに悩むくらいはやってみようと思っている。

そして、わたしも疑う心をちょっとだけ取り戻してみよう。探求がここから再スタートするのも悪くない。

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