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オーガンジーの向こう側

自己流(事故流?)ながら、おしゃれが好きだ。ファッションについての書籍やWebサイトに目を通すことも多い。

ちなみに「装うこと」に関してわたしが常に頭のなかに置いているのは、鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』である。とても面白い一冊なので、未読の方はぜひお読みになってほしい。

さて、ファッション関係の記事についたコメントを見ていると、ときどきこういう意見に当たる。

「中身が空っぽの人は、いくらおしゃれしても意味がない。むなしいだけ」

なかなかばっさり斬るタイプのコメントだと思うけれど、そもそも中身が「空っぽ」かどうかなんて誰がどうやって判断するんだろう。

ふわふわと頼りないように見える人だって、その人だけの人生という激動のドラマを生きている。知恵も優しさも、ときには頑迷さも身につけて、その人らしく懸命な毎日を送っているのだと思う。

それを他人が「中身が空っぽ」と断じるとはなにごとか、と感じてしまうのだ。

ひたむきな人生の傍らに、衣服についてのルールや流儀があってなにがいけないのだろう。それが生きる活力になることだってある。

会社員だった頃のわたしは、ややコンサバな装いに身を包むことが多かった。ジャケットにスカート、高すぎないヒールパンプスといった具合に。代表格はM-PREMIERエムプルミエ。懐かしい!

初対面の相手に警戒心を抱かせず、できるだけ好感を持ってもらえるようにと考えた末のことだった。年配の方にも同年代の人にも不快感を与えないことを重視していた。

今となっては堅苦しいそのスタンスも、組織のなかで生きていくためのわたしなりの知恵だった。

そうやって、ある種の生活の知恵をまとって生きる人は多いはずだ。自分の主張を体現するために装う人もいれば、心を守るために目くらましのように装う人もいる。

ファッションはよろいみたいだ。高感度であろうとなかろうと、装いの奥にはその人らしさが閉じこめられている。

たとえば、フェミニンな装いに似つかわしくないある人の素顔を知ったとき、わたしは嬉しくなる。

先日、袖にオーガンジー生地が重ねられたかわいい洋服を着た友人の、妙に雄々おおしい一面を見て、すごく愛おしくなった。思わず「そういうとこよ、そういうとこ。わたしの好きなのは!」と、愛を伝えてしまった。

逆に、とがった装いそのままの性格を見たときも「ああ、『らしい』な」と思う。

向かい合った相手に「そのオーガンジーの鎧にはなにが隠れているの?」と思わせたとき、おしゃれは成功したと言えるのかもしれない。装いは雄弁で、寡黙だ。これだからやめられないんだなあ、といつも思っている。

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