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その気配を感じたから
あるべきじゃないものがはさまっていた。
このあいだ、子どもの頃に大好きだったエッセイ集『まず微笑』を記事のなかで取り上げた。
三浦朱門、曽野綾子、遠藤周作の各氏によるこの本は、わたしが小学校の頃に繰り返し読んだ一冊だ。キリスト教系の小学校に通っていた当時、シスターに薦められて、母に買ってもらった(著者のお三方はカトリック信徒)。
「あのエッセイがまた読みたいなあ」、そう思ったのだけれどもう新品では見つけにくく、古本に行き当たった。
そうして購入したPHP文庫の『まず微笑』には、角川文庫の栞がひっそりとはさんであった。
「あら」
前の持ち主がはさんだのかもしれない。手近にあった栞が角川文庫のものだったのだろうか。おそらくこまかなことは気にしない人なのだろうと推測してみた。間違えてますよ、と声をかけたくなる。
古本を買うと、前の持ち主の気配を感じることがある。
学生時代、大学の近くに小さな古本屋さんがあって、貧乏学生というほどではないものの、自由になるお金を多くは持ち合わせていなかったわたしはよく通った。仲良くしていた友人もまた、そのお店にひんぱんに通っていた。
そこで手に入れた哲学書を読んでいたら、あるページに赤ペンで「客観など、ない」と書き込まれているのを見つけたことがあった。その言葉は、妙な実感をともなうものとして、しばらくわたしの頭のなかに留まっていた。わたしは哲学科にいたから、書き込みをした彼あるいは彼女の真意を聞いてみたいとも思った。
あの古本屋さんが閉店してしまったと、ずいぶん前に前述の友人からメールをもらった。学生街の古本屋さんはどんどん姿を消しているらしい。
「古本って気持ち悪い。どんな人が読んだかわからないもん」
そう話す人もいた。気持ちは理解できなくもない。でも、中古でなければめぐりあえない作品もあるし、安価で手に入れられるのは昔のわたしにとってなによりも魅力的だった。
わたしは昔、おおいに図書館や古本屋さんのお世話になったからこそ、今は本をできるだけ新品で買うようにしている。著者の労力に直接報いることが、恩返しのように思えるのだ。
それなのに、あるべきじゃない栞を見て、なんだか古本屋さんに行きたくなった。古びた紙の匂いに満ちた空間に身を置いたら、すっかり忘れてしまった大切なものに会えるような気がする。
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