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ちっぽけでアホな自分に会いに行く

「よくわからないものがこわい」と以前書いた。海洋についての知識がないから海の写真がこわいとか、高層ビルの構造がよくわかっていないから高所を避けてしまうとか、そんな話。

でも、と、ふと思う。

私は、自分の理解を超えた言説や事象に囲まれて育ったはずだ。

幼い頃から、私は祖父が大好きだった。元警察官だった祖父は、明治生まれにもかかわらず身長が175cmほどある、背筋もぴんと伸びた偉丈夫いじょうふで、司馬遼太郎のようなふさふさの銀髪をいつもオールバックに整えていて、とにかくかっこよかったのだ。

両親の郷里に帰ると、祖父はよく言っていた。

「お茶碗にごはん粒を残すと、目がつぶれる」

ごはん粒を残すのは、いけないことだ。そういう教えだと思う。私には、この迷信がとにかく意味不明だった。前にも「優しい迫力」という記事で書いたのだけれど、もう一度書く。

子ども心に、わずかなお米をお茶碗に残すことと、目が見えなくなってしまうことのあいだには、なんの因果関係もないように思われた。子どもはおろか、大人も触れることができない、理屈を超越した力が存在しているような気がしたのだ。

あと、祖父の家といえば、書斎にたくさんの本があった。なかでも仏教学者・鈴木大拙だいせつの本が意味不明だった。禅の研究でとてもとても高名な方だ。けれど、小学生にはどう考えても「無理」だった。

好奇心でページを繰ってみるのだけれど、まったく内容を理解できない……という夏休みを何回過ごしただろう。そして、この意味不明さはいまでも現役だ。

祖父のことだけを考えても、私は「理解できないなにか」によく囲まれていた。それらに会うたび、自分がちっぽけでアホな存在だと感じ、もっと世界を知りたいと思った。

世のなか、自分の力の及ばないことも、理解できない話もたくさんある。それでも生きていくし、自分のやるべきことはやらなければならない。

それとともに、意味不明ななにかに挑み続けるゆるやかなしぶとさも身につけたかった。「よくわからんこと」を心のなかにとどめて、するめを噛みしめるように長いこと考え続けてきた。だから私は、大学で哲学を学んだのかもしれない。

海もこわい。高層階もこわい。理由はよくわからないから。

でもそれって、自分が「よくわかる」ことが増えたと思い上がっている証拠なんじゃないかと思えてきたのだ。自分の「知」が広範囲に及ぶようになった、なんて思ってるんじゃない? だから理解できないことを見つけてはこわいと感じるんじゃない?と、自分に問いかける。

この世は、わからないことだらけ。おかげで、生きていくのは面白いし、学ぶ楽しみ、知る喜びがある。ふたたびそう思い直してみてもいいと思った。

今日も思いつきで、祖父から譲り受けた鈴木大拙全集のページをめくった。相変わらず、全然わからない。

ちっぽけでアホな自分に会いにいく。そんな時間も嫌いじゃない。

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