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自分の文体をものにしたい

 新潮新人賞200枚、すばる文学賞200枚、投稿できた!200枚丁度で作品を書き終えたのはこれで4作目。僕は200枚丁度で終わらせることができるという、作品の出来とまったく関係ない特技があるらしい。2枚丁度小説を毎日書いたり、40枚丁度小説を数カ月に1度書いたりという日々の中で身についたのかもしれない。

 今回は、文体の話。
 文体に関してはいろいろ思うことがあり、最近になりTwitterで尊敬している方に「その文体は自然なものか、それとも鍛えたものか」と尋ねたりもした。その方の答えは「まったく作為的ではない自然なもの」とのことで、なるほどと思った。
 僕は基本的に文体に関してはあまり考えずに書き始めた。特に目標とする文体があったわけでもなく、ごく自然に気の赴くままに書いたのではないかと思う。覚えていないのだから、きっとそういうことなのだろう。
 今にして覚えば、そのときの僕には「書き込むより、書き込まないほうが雄弁だ」という意識があった。これは東野圭吾の『白夜行』の影響が大きい。この小説は主人公2人の心理描写がまったくなく、台詞と行動描写だけで作られている。そしてそれが僕にはとても心に響いた。書かないことで、安易に言葉にできない心理を想像させるというのが、画期的なことと思えたのだ。
 そうして小説を書くようになってから悩み始めたのが、日によっての文章の出来、不出来だ。調子がいい日はそれなりに満足できる文章が書けるのだが、書けない日は駄文しか書けない、そんなことが続いた。
 この段階で、僕はもう少し自分の文体に対して意識的になろうとして、志賀直哉とE・ヘミングウェイの飾り気のない簡素な文章を自分なりに勉強した。その中で、「文章は高校英語くらいでまとめたほうが、余白があってより『白夜行』のような効果があるのではないか」と思うようになり英文法の勉強を始めた。それで一応は「こんな感じの文章と付き合っていくしかないかなあ」とある種の諦めのような気持ちも持つようになった。
 当時は、外見描写も心理描写も細かい姫野カオルコも読んでいたが、姫野カオルコについては問題意識の面での影響はとても大きいが、文章家としての影響はほとんどない。僕は別に僕以外の流儀の人の文章でも読めるので、それで平気だった。
 ただ、それでも文章の韻律に関して納得がいく日といかない日の差は大きなままだ。「粗くざっと書いて、後から直せばいいじゃん」と言う人もいるし、実際その通りなのだが、自分の中で「こんな文章は直す気すら失せる」という文章ではやはりどうしようもないというのが僕の意識だ。理想を言えば、40パーセントくらいの出来で「完璧を目指すよりまず終わらせろ」がいいのだが、それだとどうしてもフラストレーションが溜まってしまうので、ギターの練習ノートを書いていた頃のように、作文において気がついたことをを毎日書くしかないなあというのが現状だ。
 僕はなにも超絶技巧の文体を目指しているわけでもないのでそんなに苛烈な練習にはならないと思うが、なんとかもう少し気楽に文章を書くように訓練したい。この、「もっと練習したい」という思いだけでもなんとなく気分が高揚する思いだ。

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