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「分からない」との折り合い。

これまで知らなかった環境や感情に出会った時。

頭や心が混乱する様な経験をしたことがあるんじゃないかと思う。

そんな時に、何を思うだろうか。

「混乱すること自体が嫌だ」
と感じるかもしれないし

「混乱している状況は不愉快だ」
と思うかもしれない。


どんな気持ちも考えも、それに正誤はないんだけれど

「混乱することは、いけないことなのか」

と、一度ぼんやり考えてみるのはどうだろう。

頭の中の整理がつかなくて、自分が今何をやっていて、何がしたくて、どうやったらいいか迷って、自分って一体なんなんだ…。
そう感じること、あると思う。(私はある)

そんな時、次に浮かぶのは

「なんでこんなことも理解できないんだろう」
「これくらいのこと出来て当たり前なのに」
「このことは知っているべきなのに」
「自分はちっとも学ばないな…」

の様な、混乱することはまるで悪だと言わんばかりの言葉たち。

こうした混乱状態って、「わからない」を経験している最中ではないかと思うんだけど。


この「わからない」という経験は、そんなに責めるべきことなんだろうか。

きっと、多くの人は「そんなことない」と頭では理解しているんだと思う。

もし「わからない」を責めてしまったら、私たちが生まれた時に右も左も、自分自身が誰かすらもわからなかった時間を否定してしまうことになるから。

ただ、時間をかけて大人になる過程で、私たちは「わかる」ことが正解だと思うことが多くなる。

決してこれ自体も間違っているとか正しいとかの話ではないんだけれど。

私たちは日々の中で出会う「わからない」と、もっと仲良くなれるんじゃないかと思うし

日々の中で「わからない」を見つけていく好奇心を、大事に育てていけたら、何かが開くきっかけになるんじゃないかと思ったりする。

支えられて生きています。いつもありがとうございます。