女性視点で社会をみたら、異世界だった件について
「認めたくないものだな、自分自身の、男性ゆえの過ちというものを…」
と、思わずつぶやいてしまう体験をしました。
それは、一冊の本との出会い。
東京大学の前田健太郎准教授の「女性のいない民主主義」です。
私は学生の時から社会や歴史について興味を持ち始めて、人並みに色々な知識に触れ、積み上げてきました。
自分の頭の中で「社会とはこういうもの」という常識を作り上げてきたともいえます。
しかし…
この本との出会いによって、その自分の中の常識がガラガラっと音を立てて崩れていくのを感じました。
僕の頭の中で構成されていた歴史や社会の常識は、なんと、男性本位なものだったのです。
正直なところ「まさか自分が…?」という思いでした。
こういってはなんですが、時代錯誤な一部のオヤジならいざ知らず、男女平等な社会を実現するためにまるッとキャリアをかけているはずの、この私が…!?
しかし本当に残念ながら、自分もどうやらこの世に巣食うジェンダー不平等の深刻さを理解しきれていなかったことが判明。
まあ、「ジェンダー」っていうか、この社会は基本的に生物学的には男女で構成されているので、女性視点がないってことは、社会観として不完全なわけです。
そこで今回のエントリでは、私の衝撃体験を皆さまに共有させていただきたいと思います。
前田准教授の「女性のいない民主主義」(以下、本書)の一部を私個人の独断と偏見で超訳しつつ、お伝えします!
「女性」のいない人類の歴史
突然ですがここで問題です。
人類史上、最初に出現した民主主義国家はどこでしょうか。
古代ギリシャ、共和制ローマ、イギリス(名誉革命)、フランス(フランス革命)、アメリカ…
「民主主義」の定義によって様々な回答がありえそうですが、一般的にはこんな感じのラインナップではないでしょうか。
だいたい「民主主義」について書かれている本で主に登場する国家はこんなところだから。
でもね、ここで考えてみてください。
今あなたが考えた「民主主義」の中に女性は含まれていましたか?
上記のラインナップだった場合、いずれも女性の概念はすっぽり抜け落ちていたはずです。
無理もありません。そう学校で習ったのだから。
「民主主義」の定義に男性だけでなく女性(つまり、全ての成人)をも含めた場合、連想されるべき国家は世界史上はじめて女性の参政権が認められたニュージーランド(1893年)とかではないでしょうか。
民主主義の先進国として語られがちなアメリカが女性の参政権を認めたのは1920年になってからです。日本は1945年。
素直に考えたら、民主主義の基本は主権在民であり、この「民」にはもちろん女性も含まれるわけだから、「人類史上初の民主主義を達成した国はニュージーランド!」という回答があってもよさそうなものなのに…
しかし、私も含めて多くの人はそういう発想がそもそもありません。
こんな問題は学校のテストに出てこないのです。
こんな感じの話が、人類の歴史を見返してみるとたーくさん出てきます。
教科書、大丈夫か…?と思わざるを得ません。
そしてこれは歴史だけの話ではありません。
現代社会を形作っている社会制度にもバッチリ当てはまってしまうのです。
「福祉」は誰のためのもの
例えば、私たちの生活に欠かせない「福祉」。
歴史的にみて、福祉という概念が世界各国の制度に本格導入され始めたのは第二次世界大戦後です。
1943年、ウィンストン・チャーチルは来るべき戦後の英国の理想をラジオで語りましたが、その時にでた「ゆりかごから墓場まで」というキーワードは今でもいろんなメディアで使用されています。
戦後の総選挙でクレメント・アトリー率いる労働党にチャーチルは破れてしまいましたが、「ゆりかごから墓場まで」の理念はその後 国民保険サービス(NHS)に結実しました。
簡単にいうと、NHSとは誰でも、いつでも、平等に、基本的に無料で利用できる医療サービスです。
日本でも少し遅れて1958年には国民健康保険法が制定され、1961年には基本的に全ての国民が保険医療を受けられる体制が確立しました。
ここからさらに英国や日本を含めた先進各国は年金、失業保険、生活保護など、福祉的な政策を推し進めていくことになります。
いやー、素晴らしいことですね。
でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみましょう。
こういった「福祉」って、誰のために設計されたのでしょうか。
伝統的な「福祉」は労働者のために発達してきました。
かつて労働者は、労働市場のなかで「商品」として扱われてきたからです。
経営者によって搾取され、ひとたび失業や病気になると生活が成り立たなくなる深刻なリスクがありました。
いわば労働者を「脱商品化」させる、というのが福祉の至上命題でした。
そして当時「労働者」とは基本的に男性です。
だからかつての福祉政策は「彼自身、および彼の家族のため(※)」に設計されていました。
※ 英国の福祉の方向性を決定付けたべヴァリッジ報告書から引用
労働者である男性に対して福祉を提供し、その男性を通じて彼の家族にその恩恵を行き渡らせる方式です。
いわば、男性稼ぎ主モデル、といえるでしょう。
日本の福祉政策も戦後長らくこの男性稼ぎ主モデルで推進されてきました。
それを推し進めた結果、1970年代には「一億総中流」といわれる世界でも類稀な平等な社会を実現したのです。
今でも色々なメディアでふれるワードですね。
僕も正直、ここにそんな疑問を持ってはいませんでした。「そんな時代もかつてあったんだねぇ」と呑気に思ってたくらい。
…
しかしここで「女性」というレンズをつけてこの「一億総中流」をみると、全く違った様子が浮かびあがってきます。
厚生労働省 『賃金構造基本統計調査』によれば1980年の男性の所定内給与額を100としたときの女性の給与額は58.9です。
女性のお給料、男性のほとんど半分ですやん。
総中流どころか、めっちゃ格差社会っていう。
これが男性稼ぎ主モデルがつくりだしてしまった社会の歪みです。
このモデルの欠点は、男性が労働者、いわゆる一家の大黒柱として家族を養うことが前提となっていること。
だからこの制度のもとでは、夫婦で役割分担させる力学が働いてジェンダー不平等を加速させてしまうし、
シングルマザーやワーキングマザーなど、この条件に当てはまらない女性は十分な恩恵を受けることができませんでした。
日本は今でもこのモデルを引きずっています。
配偶者控除制度などが典型的なものでしょう。
この問題を捉えて、北欧を中心に発展してきた新しい視点の福祉の形が個人モデルです。
このモデルでは国家から提供される福祉は個人に紐づくので、特定の家族像は想定されていません。
男女ともに個人の資格で社会保険制度に加入しています。
また、この個人モデルの特徴は従来のジェンダー規範の中で女性が担っていた育児や介護といったケア労働を社会化させることです。
女性の労働を促進する力学が働くからです。
かつての男性稼ぎ主モデルの福祉が労働者の「脱商品化」を目指したものである一方で、
新しい個人モデルは女性を従来のジェンダー規範的な家庭から解放する「脱家族化」を志向するものといえます。
かつて世界のどこよりも平等な「一億総中流」といわれた1970年代の日本社会を、この新しい視点を加えて再評価してみましょう。
こうなります!ドドン!
引用元:「女性のいない民主主義」前田健太郎, p114
確かに国際的にみて、従来の「脱商品化」という切り口の福祉では、日本はかなりの好成績をおさめています(横軸)。
しかし、縦軸に「脱家族化」という概念(家族関係社会支出がGDPに占める割合)を加えてみると、日本はなんと最下位…!
つまり、「一億総中流」の時の日本は先進国の中でも男性には優しかったけど、女性には全然優しくない国だったのです。
私たちは教科書を書き換えなければなりません。
1970年代の日本は「5千万(男性だけ)中流社会」だった、と…
ジェンダー不平等は数ある社会問題のひとつ、ではない
私が本書を通じて痛感したことは、人類社会が生物学的には基本的に男女で構成されている以上、
男性視点だけで社会をみて課題をとらえ、それを解決したとしても、完全に片手落ちってことです。
場合によっては、現代社会の問題を固定化させる力学になってしまうという意味で、片手落ちどころか障害にすらなりえます。
「先進諸国と比較して女性活躍が遅れている」とかいう表現のされ方をすると、私たち男性の多くはこう感じるのではないでしょうか。
「あー、ジェンダーの問題を解決しないといけないのか」と。
ジェンダー不平等を様々な社会問題のひとつとして捉えてしまっているのです。
でも、違うんですよね。
私たちがコミットしないといけないのは「ジェンダー問題の解決」ではなくて、社会を構成する半分の人の幸せであり、それは中長期的には社会全体の幸せにつながっていきます。
そこを自覚できてはじめて、これからの社会をどうしていくべきか、という議論のスタートラインに立てるのではないでしょうか。
個人的な話ですが、もうすぐ娘も生まれてきます。
お父さんとしては、娘が成長した時に女性であるがゆえに社会から不利益を被るなんてことは許せません。
もう、完全に自分ゴトになってしまいました。
変えてこう!
重ねてになりますが、今回のエントリは東京大学の前田健太郎准教授の「女性のいない民主主義」の一部を、私が独断と偏見で超訳したものです。ほんの少しでも興味がわいた方は、ぜひ本書をご覧ください。特に男性の皆さま、わりと人生観変わりますよ。
この記事が参加している募集
いただいたサポートは、より面白いコンテンツをつくる為の投資に使いたいと思います!