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【ショートストーリー】仕返し


 百貨店の黄色い明かりがきらびやかに輝いているのを向こうに、ふと地面に視線を落とせば、グレーの化粧タイルの上には、だれかがかみ砕いて吐き出したガムの跡が無数にこびりついている。
 数人の男たちが、先ほどから威圧的な足音を立てながら、行きかう人々の間を回遊魚のようにさまよっている。そいつらは、仕事帰りの男たちの中から図体の大きい男を見つけ出しては声をかけ、肩に掴みかかっていた。汚れたジーンズに派手なブランド物の絹のシャツを着た奴らだ。その中の1人に見覚えのある男がいた。嫌味な匂いの香水をつけ、高級そうなドでかい腕時計をはめ、金のネックレスを何本も首から下げた長髪の男だ。そいつは、その髪のとがった先端が目に入らないよう常に無意識にかき上げながら、肩をいからせた歩き方で周囲の空気をいたずらにかき回していた。

 ここは、毎朝勤務先へ向かう人たちでごった返す、列車の連絡路のひとつだった。昨日の朝も、曇り空の下交差点を渡ってきた人々はこの天井の高いドーム状の薄暗い空間へ流れるように入り込んできた。汗と油の混じったような匂いで空間は埋め尽くされる。
 その時、スーツを着た図体のとても大きな男性の体が、すれ違いざまに長髪の男と接触したのだ。太った男性の背広は薄っぺらくて、よれたようなしわが不格好に刻まれていた。銀縁の四角い眼鏡をかけ、そのガラスの部分は下半分が汗の蒸気で白く曇っていた。
 ぶつかりざま不覚にもよろめいた長髪の男は、体勢を立て直すと大柄な男の方に掴みかかったのだ。
 「おい、こら! 待てや、おっさん!」
 雑踏と静けさに満ちた暗い空間に、男の泥のような怒声が響く。男が大柄な男性の肩を掴んで強く引いたかと思うと、太った男は素早く男の腕をとり、背中に担ぎ上げ、そして勢いよく男を地面に叩きつけたのである。瞬く間の出来事であった。男のつけた香水の匂いが叩き付けられた地面からはじけ飛び、勝ち誇ったような表情は瞬時にして戸惑いのそれに変わった。髪を振り乱しながらそいつは立ち上がったが、体がよろめき、再び地面に這いつくばる形になった。
 そしてその時にはもう、大柄な男性はそのまま足早に歩き去った後だったのだ。

 絹のシャツを着た男たちは、行きかう人々の間を縫うように歩き続ける。百貨店の入り口の前には、誰かを待つ人々が一様にスマートフォンを見つめ、街に消費された人々は重い足取りで交差点に向って歩いている。
 大きなエンジン音を立てた一台の車が交差点を猛スピードで走り去り、街はさらに混とんとした様相を呈し始める。
 空間に長髪の男の罵声が響く。アクセサリーと香水をふんだんに身にまとった数人の男が、ひとりの大柄なスーツ姿の男性を取り巻いている。男性は、眼鏡をかけ、しわくちゃな背広には酸っぱい汗のにおいが染みついている。男性は、長髪の男に胸倉をつかまれ、まるでバイクのエンジン音のような声で脅しをかけられていた。顔に唾を吐きかけられ、転ばされ、眼鏡を割られ、腹を蹴りつけられても、彼はその男たちに対して謝るしかなかったのだ。彼は、昨日の男性に似てはいるが、まったくの別人だった。
 だが奴らにとって、もはやそのことは重要なことではなくなっていたのだ。

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