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さびしんぼう
仕事に向かう朝、ぼくは線路の高架下を歩いていた。駅へ早足に向かう人たち何人かとすれ違う。ぼくの前には、お父さんと男の子が一緒に歩いていた。3,4歳くらいの頭をじゃがいもみたいに丸坊主にした男の子で、昔のCMに出てくるマルコメの少年のような、ごんたっぽい男の子だ。お父さんは背中にもうひとり、小さい子をおんぶしていた。
お父さんの風貌は、痩せていて、メガネをかけて、長い髪を後ろで束ね、作務衣のような物をきて、足にはサンダルを履いている、そんなお父さんだ。
頭上の線路から、駅を出発した電車の音が聞こえてきた。この郊外の駅から都会へと向かう電車がたくさんの人たちと、そしてたくさんの人たちの様々な気持ちを乗せて動き出したのだ。
すると、前を歩いていた男の子が突然、電車の音に向かって大声で叫びながら走り出した。
彼は走りながら、
「バイバーイ!」
と高架に向かって叫んだ。電車は高架の上を走っているので見えないけれど、電車の出す轟音に向かって。
そして、彼は父を振り切って見えない電車の幻影を追いかけていく。
ああ、電車好きの男の子なんだろうな。
ぼくはそう思ったけれど、それは少し違っていたようだった。
少年は、こう叫びながら駆け続けたのだ。
「バイバーイ、お母さんバイバーイ。お母さーん、バイバーイ!」
少年は、電車にではなく、その電車に乗っているであろうお母さんに向かって、懸命に声を張り上げていたのだ。
手を振りながら、自分の声は確かにお母さんに届くと信じて、彼は一心にお母さんに自分の声を伝えていたのだ。お母さんの姿さえ、彼の目には見えていたのかも知れない。
しかし、無情にも電車はスピードをあげ、次第にその音も聞こえなくなってしまった。
電車が行ってしまうと、じゃがいも頭の男の子は立ち止まり、ぺたんと地面にお尻をつけて座り込んでしまった。うつむいて、そして指でアスファルトをいじり始めた。
お父さんが彼に追いついて、言った。
「さびしんぼうになっちゃったなあ、さびしんぼうに」
うつむいているのではなく、彼はうなだれていたのだ。電車に向かって叫んでいたのは、彼には本気のコミュニケーションだったのだ。距離もあり、姿も見えないけれど、彼は本当にお母さんに語りかけていたのだ。
男の子を見て、その純粋な心にぼくは少し感動を覚えた。その”ごんた”そうな外見とは裏腹な彼の繊細な心に、本当の「真っ直ぐな気持ち」を見た思いだった。
うなだれて、すねたような男の子をお父さんは抱きかかえた。男の子は、手の甲で濡れた目を素早くぬぐい、お父さんの肩に顔を預けた。
そしてそのまま、親子は角を曲がって行ったのだった。
子どもの感情というものは、瞬時に変わるものなのだな、そしてその変化は本当に素直に態度や言葉に現れるんだな、とぼくは思った。
大人になれば、抱いた感情をありのままに表すことはできなくなってしまう。生きていくうちに様々な経験や、しがらみに出会い、心は得体のしれないもので厚く覆われていまい、結果まわりの人に気を使いながら感情をセーブするようになるのだ。
子どもは、どこであれ、誰の前であれ、自分の気持ちをストレートに出す。泣きたいときは泣くし、嫌なときは嫌と言うし、腹が立ったときには怒る。
その心は、むき出しでとても傷つきやすいものではあるだろうけれど、そこにはある種の強さを感じる。
そしてときには、その強さ、素直さを、羨ましく思ってしまうのである。
高架のある空を仰ぎ見ると、厚い雲の隙間から朝の日差しが、まるで生まれたて光のように優しく柔らかに射しはじめていた。
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