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【ショートストーリー】ガード下の歌うたい(2/2)

 誠一は、ターミナル駅の方へひとり向かった。地面のアスファルトには、人工的に作られた明かりでできた行きかう人々の淡い影が、あらゆる方向に交錯して揺らめいている。その影を見るともなしに見つめながら、誠一は自分の存在が次第に希薄になっていき、しまいには消えてしまうような感覚になった。
 駅の手前にある大きな横断歩道にたどり着いたとき、信号は赤に変わった。広い国道をまたぐ横断歩道だ。ここのところ、毎日誠一はここを通っていた。
 いろんな音が鳴っている。横断歩道の両端で、若者が高価な機材を路上に広げ、アンプやマイクを使い、大音量でギターや歌を垂れ流していた。
 横断歩道の右側で歌う女性は、おそらくどこかでボイストレーニングなどを受けているのかもしれない。とてもきれいな歌声で歌を歌い、とてもきれいな声で周りを囲む人々に向って自分のCDを売り込んでいた――その口調はまるでどこかで聴くFMラジオのDJのように洗練されていた。しかし、誠一にはそのどこか器用で、小慣れたような感じがどうしても気に食わなかった。彼らのやっていること何もかもを、どういうわけか誠一自身受け入れることができなかったのだ。

 ターミナル駅から、誠一は各駅停車の電車に乗り込んだ。電車の中はすいていたが、誠一は座らなかった。電車に乗り込むと、ほかの乗客は誠一の汚れた作業着姿を盗み見、そして微妙に誠一から距離をとった。誠一の住む部屋は、ターミナル駅から3駅行ったところにあった。その間、誠一は車両の連結部分のそばに立ってやり過ごした。ドアのそばを見ると、車いすに乗った女性と目が合った。しかし彼女は彼と目が合うとすぐに目をそらし、ぼんやりと窓の外に視線を動かしたのだった。
 駅を出ると、彼はコンビニエンスストアで缶ビールを買った。そして、駅のガード下の近くにある小さな公園のベンチに座って缶ビールを開けた。小さな児童公園だった。古ぼけた滑り台やジャングルジム、ブランコなどが闇の中に眠ったようにひっそりとたたずんでいる。かなり年季が入っているが、それでも現役で使用できているのは、職人や検査技師による手入れがしっかりと施されている証拠でもある。
 誠一は、ベンチから見える駅前の4階建てのビルを見やった。それは30年ほど前に建てられたビルであった。父親の手伝いで初めて左官の仕事をやった時に、自分で壁を塗ったビルだった。
 「俺たちのような人間がいるから、人の生活は成り立っているんだぞ」
 と父親は酒を飲む度に誠一に語っていた。「俺たちがいなきゃ、家も建たんし、橋も架けられやししない。世界は俺たちの汗でできてるようなもんだ」
 誠一はビールを口に含む。駅前のビルは学習塾になっていた。中学生くらいの子どもが、同じ方向に向って勉強している姿が見えた。
 その窓には、有名な私立高の名前と、そこに何人合格者を出したかということが書いた紙が誇らしげに貼られている。
 誠一は大きく息を吐き、ビールを飲んだ。色の禿げたプラスチック製のパンダが、暗がりの中で笑みを浮かべながら誠一を見つめていた。
 公園のはずれ、ガード下の方から下手くそなギターの音が聞こえてきた。若い男が、ガード下から少し通りに出たところに座り込み、ギターの弾き語りをはじめた。誠一は、ビールを飲みながら、その青年を見つめた。青年は、自分の前にギターケースを広げ、ギターを演奏し、歌っていた。通りを歩く人の姿はまばらで、青年の前で立ち止まるものはひとりもいない。ギターの演奏はお世辞にもうまいとは言えず、歌声は弱々しく、ギターと同じく下手くそだった。曲も歌詞もよく聴き取れないまま、不器用に歌い続けた。ガード下の薄明かりの中で。電車が通れば声がかき消される中で。
 口に運ぶビールももうぬるくなってしまっていた。そのせいなのか、ビールの苦みがいやに強く、鮮明に感じられた。
 誠一は、青年を見つめながら、彼のかきならすギターと、その歌声に聴きいった。ときおりつっかえる青年の声が、まるでとげのように誠一の胸を突き刺した。
 湿気を含んだ生暖かい風が吹いた。見上げれば、細く繊細な月とともに、いくつかの星が出ていた。




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