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アップデートしていく
先日、情けないことに肉離れを起こしてしまった。サイクリング中に突然チェーンがはずれて、転ぶまい!と無理な姿勢で足を踏ん張ったせいで、ふくらはぎの筋肉がギュッとなってしまったのだ。
ため息、、、
満足に歩くこともできずに、通勤に駅まで歩いて、いつもなら10分ちょっとのところ、30分もかかるので、朝も30分早く起きなければならないし、サイクリングというぼくの勝手な趣味での怪我なので、妻にもしかられてしまう始末。
そして恥ずかしいことに、歩くのが困難にになって初めて、足の不自由な人たちの苦労や気持ちを慮ることができるようになった気がする。
同時に、ひょこひょこ歩くぼくを邪険にせずに気遣ってくれる人々の優しさにも感謝を覚える日々だ。
そういえば、最近は学校のクラブ活動における顧問の教師のパワハラが問題になってきている。できない子どもに対して心ない言葉や暴力をふるったり、切り捨てたりするようなことがよく報道で取り上げられている。
ぼくが子どもだった頃にはよくあることなのかもしれないが、今の世の中ではそれは通用しない行為となってきている。
もちろん勝つことも大事なのだが、学校という教育の場であればなおさら、うまくできない子どもにも有意義にクラブ活動ができる環境づくりを考えていってしかるべきだ。
また、障がい者についても、近年は、障がいを「もつ」ではなく、障がいが「ある」という言い方が主流になってきている。
これは、その人自身が障がいを抱えている、というのではなく、その人が普通に生活するための障がいが社会の中に「ある」という考え方だ。障がいはその人にとって障がいではなく、特性と捉え、むしろ社会の中にこそ障がいが存在するということなのだ(ハード面だけでなくソフト面でも)。
生きていくためには、人は強くならなくてはいけないが、考えようによっては弱い人を受け入れる、というのも強さだろうと思う。
平家物語の「おごれる人も久しからず」ではないけれど、今は強い人でも、いずれは弱くなるのだから。
昔の認識と今の認識はまるで変わってきている。昔のままの頭では、いつしか気が付けば浦島太郎的存在になってしまうだろう。
世の中は常にアップデートしているのだ。
そして、ぼくの認識もアップデートしていかないとな。
弱者が弱者でなくなる社会に、そしていつの日か、弱者という言葉自体がなくなればいいのにな。
などと、肉離れでひょこひょこと不器用に歩きながら、なんとなく思ったりした。
読んでいただいて、とてもうれしいです!