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【ショートストーリー】ガード下の歌うたい(1/2)

 空を仰ぐと、細い爪の先のような月が出ていた。
 駅へ向かう通りは、スーツを着たものや、すねかじりの若者やらであふれかえっている。誠一の作業服にはセメントのしぶきがいくつも固まってこびりついている。担いだ左官の道具が重く左肩に食い込んで、歩みを遅くしていた。
 この数日は決まった現場での仕事があり、誠一は毎朝きれいに洗濯をした作業着を着てこの通りを進み、毎夜月の上るころには汗とセメントで汚れた服のままこの通りを歩いた。
 「今回の現場、来週中にはなんとかできそうやな」
 隣で歩いていた岡さんが言った。
 「そうですね」
 誠一は言った。岡さんは、汚れたタオルを首に巻いて、しわくちゃの帽子をかぶっている。服にも、タオルにも、帽子にも、セメントと長年の汚れとがべっとりと染みついている。
 「どうや、今日は金曜日やし、ちょっとどっかで飲んでいかへんか?」岡さんは目じりに深いしわを寄せて言った。「一杯やりながら、お前さんの話もっと聞かしてくれや」
 「いや、今日はもう帰りますわ。帰って作業着の洗濯しようと思ってるんで」
 「そういや毎朝、いい匂いで来るもんなあ、お前さん。石鹸のいい匂いさせてな」
 小柄な岡さんは、誠一を見上げるようにして言った。
 「昔の親方から教えられたことをそのままやってるだけですよ」
 「そうかあ、いい親方やったんやろうなぁ。あんたの仕事見てたらようわかる」
 「岡さんこそ、仕事とても丁寧じゃないですか?」
 「そうか、ありがとな」岡さんは言った。「でもな、もうそろそろ引退やわ。七十超えてからというもの、体がだんだんもたへんようなってきたからな。俺はもう、この仕事を最後にしようと思ってるんや」
 「そうなんですか?」
 「ああ。まあ、年金もかけて来んかった自分が悪いんやけどもよ、働かにゃ生きてこれんかったからな。でもようやく女房ももうええって言うてくれた」
 岡さんは、まるで他人ごとのように笑った。前歯が二本抜けたままになっていた。
 「これまでは誰の世話にもならんと生きてきたつもりやけど、これからは息子の世話になって生きていくっちゅうことやな」
 「息子さん、おられたんですね」
 「ああ、毎日背広着てホワイトカラーやっとるわ。子どものころは俺の仕事を継ぐ、いうとったんやけどもなぁ」
 岡さんは、肩に背負った道具かばんを重たそうに担ぎなおした。
 「ところでお前さん、家族は?」
 ふたりは駅の方へと向かいながら、繁華街の路地を歩き続ける。通りを多くのスーツ――暑さのため、スーツを肩にかけてワイシャツ姿になった者も少なくなかった――を着た会社員や学生たちの団体が埋めている。。
 「家族は」誠一は言った。「今は、いません。一人暮らしです」
 居酒屋の店先で、たむろしている男女の若いグループが騒いでいた。店から出てきたところで、次にどこに行こうか決めかねているところのようだった。
 「そうか。」岡さんは言った。「子どもは?」
 「息子がひとり。もう高校生になってるはずですけどもね」
 「だいぶ会ってないんかい?」
 「そうですね」誠一は言った。「今はもうどこにいるのかもわかりませんけどもね」
 その声は、若者たちの笑い声にかき消されてしまった。野太い男の笑い声と、甲高い女の笑い声が一種の不協和音のようになって、夏を前にした湿った空気の中にまき散らされた。
 誠一は、自らの手の平に目をやった。分厚くて、真っ黒に汚れていた。いくら洗い流しても落ちることはない、まるで皮膚に染み込んでしまったかのように黒ずんでいた。
 ーーおやじの手とそっくりじゃないか。
 誠一は思った。空を見上げてみたが、そそり立つ建物の狭い隙間からは、星を見ることはできなかった。ただ、反射する光のせいでぼんやりと白く濁った空気が頭上に漂い、暗い夜空をさえぎっているだけだった。
 「なあ」岡さんは誠一を振り返った。日焼けした顔に深いしわが刻み込まれている。汗がしわに入り込んで、まるで涙のように顔を濡らしている。「やっぱり、軽く飲みにいかへんか?」
 誠一は、
 「今日は本当にやめておきます。来週、この仕事が片付いたら必ず行きましょう」
 と言った。
 岡さんは頷いた。そして、少し歩いたところで誠一に手を振ると、その背中は一軒の小さなガラス張りの立ち飲み屋に入っていった。



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