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【ショートストーリー】短いメッセージ

 昨晩、私は娘とケンカをした。小学校のころの友達から連絡が来て、久々に明日みんなで一緒にモールに遊びに行こうと誘われたのを、私が断らせたからだ。
 今朝は明け方一度目を覚ました時からずっと本格的な雨が降っていた。
 「ほら、雨なんだし、ちょうどよかったじゃない。」
 朝私が言うと、起き抜けの娘は腫れ上がったまぶたのまま、
 「モールだから天気なんか関係ないもん」
 と言ってソファに音を立てて沈み込んだ。
 今日は、娘の書道の日だ。普段土曜日には書道はないのだけれど、展示会が迫っているために特別に今日の午前中に教室が開かれることになっていたのだ。

 娘を車で書道教室まで送っていったあと、私は一人車の中で彼女が終わるのを待っていた。大型のスーパーマーケットの駐車場に車を止めて待っていた。
 こんな風に時間があいた時は、ジョギングやウォーキングなどの軽い運動をしたりするのだけれど、この雨ではあきらめざるを得ない。
 娘は、車に乗っている間じゅう、カーステレオで音楽を聴いていた。一言も口をきかず。教室の前まで一緒に傘を差しながら歩いていくときも。狭い路地のため傘を半分たたみながら歩かねばならず、大粒の雨が肩や背中に降りかかり、前を行く娘の背中にも雨粒の跡がいくつも灰色に染み込んでいった。
 教室の中に娘の体が吸い込まれていくのを見届けると、私は駐車場に戻り、さっきまで娘が深く座っていた助手席に身を滑り込ませた。傘をたたむとき、雨が派手に体を打ち付けるので、急いで車に乗り込んだ。はずみで、傘から跳ね飛んだしぶきが左目に入り、その冷たさが時間をかけて目の中に均等にいきわたっていった。
 助手席に座り、少し肌寒さを覚えたので、エンジンをかけて車を暖めるかどうか考えたが、結局エンジンは切ったままにしておくことにした。
 窓に雨粒があたり、ガラスの上を川のような模様を描きながら流れていく。
 スマートフォンを取りだすと、夫からラインが来ていた。
 今さっき起きたようだった。
 ――コンロにスープがかかっているから、適当にパンでも焼いて食べといて。
 私は夫に返信をした。夫からはすぐに返事が来た。
 ――了解。あと、自分で目玉焼きでも作って食べときます。
 私はため息をついて、もう返信はしなかった。電子書籍アプリを開き、本を読むことにした。
 背もたれを倒すと、足もとがかなり広いことに気が付いた。確認してみる助手席のシートが一番後ろにまで引かれていることが分かった。娘は私の知らない間に、シートを後ろに下げて自分の居場所を広げて快適にしようとしていたのだ。
 私は仰向けに横たわり、小さな画面で電子書籍を読み始めた。名も聞いたこともないような作家の推理小説だったが、読んでいくうちに、意識は小説の方に吸い込まれていくようだった。
 雨は変わらず降り続け、空は鉛色の厚い雲に覆われて降りやむ気配が見られなかった。時折り、私の周りを駐車スペースを探す車が通り過ぎていく。その都度、私はその近づいてくる車から顔を背けるように身をよじらなければならなかった。
 気が付くと、私は眠っていた。目を開けると、黒い大きな2羽の鳥が雨の空を飛んでいるのが見えた。時計を見ると、12時30分になっていた。書道が終わる時間は12時だ。30分も過ぎている。私は急いで娘からのラインを確認したが、まだ連絡は入っていなかった。
 車の中がひどく冷え込んでいる。私の体も、深いところまで冷えきって、腹のあたりに締め付けるように震えが襲ってくる。私は、凍える手で娘にラインを送る。まだ終わらないのか、と。
 既読にならない。しばらく待ってみたが、画面に既読の印は一向につかないのだ。娘からのメッセージは、3日前に送られてきたふざけたスタンプが最後だった。
 もうすぐ13時になる。私は車を降り、傘をさして歩き出した。雨はさらに激しい降りになっている。駐車場から書道教室までは歩いて10分もかからない。傘をすぼめながら、私は狭い路地を進んでいく。幅は1メートルもない細い土の道だ。横殴りの雨がまるで鞭のように私の右ほおを打つ。泥のような地面には水たまりができ、靴の中に水が染み込んでくる。
 雨粒を服の袖で拭いながらスマートフォンを見返しても、いまだ娘からの連絡はない。狭い路地を出ると、教室はもうすぐそこだ。体はまるで、川から上がってきたところかのようにびしょぬれになっていたが、ようやく私は教室の前までたどり着いた。
 教室は古い団地の一階の部屋で、外からは中を見ることができない。私は、もう一度ラインの画面を確認した。その時、ちょうど私が送ったメッセージにようやく既読がついたのだ。そして、”いま終わった”という娘からの簡単なメッセージが届いたのだった。
 傘を差しながらずぶぬれで立っている私を、通りすぎる人々は興味深げな眼で見つめていった。私は、再び体が冷えていることに気が付いた。そして震える指で、
 ――了解。下で待ってます。
 と娘に短いメッセージを送った。




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