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タローのこと

 私には謝らなければならない相手がいる。

 村上春樹氏の「猫を棄てる」を読んだ。
 春樹少年が、父親とともに自転車で猫を棄てに行く、というところから書き出される、主に彼の父の人生と、そして彼と父との確執を描いたエッセイのような本だ。

 棄てたはずの猫は結局また戻ってくるのだけれど、私はそこに私の過去の過ちについて考えずにはいられなかったのだ。

 私は、小学生の頃一匹の犬を飼っていた。

 姉の友人が飼っている犬が仔犬を産んで、その一匹をもらってきたのだ。部屋にはこたつがあり、そして石油ストーブがたかれた冬の季節だったと記憶している。
 茶色くて鼻のまわりが焦げ茶色で、まん丸で濡れた瞳のその仔犬は、雑種ではあったけれど本当に可愛くて、しかしその時は見知らぬ場所に連れてこられ、見知らぬ人間に囲まれているという不安と恐怖に襲われて、その小さな足をブルブルと震わしていたのだ。
 あたたかいこたつ布団をかけてやってもその震えは止まらなかった。そしてその夜は、ずっと母犬を思っていたのかもしれない、ひと晩中悲しそうな声で鳴き続けていたのだ。

 ぼくはその犬をタローと名付けた。

 父親は、道端に棄てられた仔犬をよく拾っては連れ帰ってきていたので、私の家ではこれまでも何匹か犬を飼ってきてはいた。
 しかし、タローは私が初めて世話をする事になった犬になったのだ。

 
 「この子は足がしっかりしてるから、大きなるで」

 と母親は言っていた。

 そしてその言葉通り、タローは数ヶ月もするとすっかり大きくなり、力も強くなり、小柄な私では手を持て余すくらいにまで大きく成長したのだ。

 私ははじめのうちこそタローの世話をせっせとし、かわいがっていたのだけれど、次第に
タローが大きくなるにつれてその世話が面倒になってきた。
 子どもだった私は、やはり遊ぶことのほうが大事だったのだ。

 その頃は、犬は外で飼うことも多く、タローもそうだった。毎日の散歩も億劫で、餌やりも面倒だった。そしてタローは、外の通りを誰かが通る度に吠えるので、それも私は嫌だった。友だちの犬は静かで大人しいのに、どうしてタローはこんなによく吠えるんだろう。考えてみれば、それは私の愛情が足りていなかったばかりに、タローをいつも不安にさせていたのかもしれない、と今になっては思うところであるのだけれど、その頃はやはり私のタローに対する愛情はかなりの割合で失われていたのだ。
 それどころか、どこか怖いとも思ってしまっていたのだ。

 私は、義務のようにタローにエサをやり、義務のようにタローと散歩にいった。
 そして、そのまま歳月が過ぎた。

 タローは短命だった。

 タローは、私の家に来て数年しか生きられなかった。

 ある時、ジステンバーにかかり、そのまま死んでしまったのだ。

 タローが亡くなる前の晩、初めてこの家に来た日と同じようにタローは夜通し悲しそうな声で泣き続けていた。
 しかし朝にはもう、その声は聞こえなくなり、私が2階から降りてきたときには、すでにタローは玄関で息を引きとっていたのだ。
 玄関に敷いた毛布の上で、タローは手足を伸ばした様子で横たわっていたのである。体を撫でてやると、固く硬直していることが分かった。

 タローはギュッと目を閉じて、動かなかった。すると、私の中から急に悲しみがこみ上げてきて、涙が溢れてきたのだ。
 いつからか、タローに対する愛情は消えていたはずだったにもかかわらず、固く動かなくなったタローを前にして、私の脳裏にはタローと過ごした日々の思い出が湧き出るように思い出されてきたのだ。

 初めてこの家に連れてこられた時にブルブルと小刻みに震えていたタロー、とても小さくて、コロコロしてて、とてもかわいかったタロー。散歩から家に近づくに連れて、家に帰るのを嫌がっていたタロー。台風の雨風の中、びしょ濡れになりながらタローの犬小屋までエサをあげに行ったこともあった。私の友だちの前で、「お手」というと、ちゃんとお手をしてくれたときのタローはとても誇らしく思えた。

 思い返せば、タローとの思い出はいつの間にかたくさん私の胸に詰まっていたのである。私の中で、知らぬ間にタローの存在は思った以上に大きなものになっていたのだ。
 私はその時になって初めてそのことに気がついたのだった。

 こんなことなら、もっとちゃんと世話をしてあげてればよかった。もっといっぱいかわいがってあげれば良かった。
 そう思い、昔の名残を残した焦げ茶色の鼻を見、また涙がこぼれてきた。そして、ごめん、とタローに何度も謝ったのだった。

 タローのことは、大人になってもずっと、喉に引っかかった小骨のように私の心に残っていた。

 そして、いつかきちんとした形でタローに謝らなければならないと思っていた。文章にすることが、タローに対してなんの償いにもならないことは分かっているが、自分の中のある種の儀式のような、書き出すことが私にできる唯一の謝罪であるかのような、そんな思いが以前から強くあったのだ。

 しかし、これを書くことで、タローへの「すまなかった」という思いが消えるわけでもないだろう。これは生涯私が背負っていくべきものなのだろうと思う。

 タローを幸せにしてやれかった。その私の後悔は消えることはないだろう。

 タローのあと、今まで私は犬を飼うことはなかったし、これからも飼うかどうかはわからない。

 「猫を棄てる」のなかでは、春樹少年の猫は戻ってきたけれど、もしもタローがまた生まれ変わったとしても、きっと私のところにはもどってはこないだろう。

 しかし万が一でも、もし戻ってきてくれたなら、今度こそはしっかりと面倒を見て、かわいがって、そして家族の一員として育ててやりたい、とそう思うのだ。




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