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父の愛した「天女の羽衣」

昨年の春、約4年間の自宅での闘病生活の末に、父は帰らぬ人となった。

これは父の最期の日、昏睡状態の父と私が2人きりになった時に、父の手を握りながら、溢れる気持ちを書き留めたもの。



この日の前夜も、父が苦しそうだと母から連絡があり、私は実家へ急いだ。
その時は、父はなんとか起き上がり、ひとり、ベッドで夕飯を食べられていた。

ほとんど食べ残していた牛肉のみぞれ煮を

「母さんに悪いから、お前、食べてくれやんか?」

と私に頼んできて、「私もお腹いっぱいだから、明日食べたら?」と断ってしまった。
「明日も来るから。」と言って、いつものように父と握手してから、笑って別れた。


翌朝、また母から電話がかかってきた。

「お父さん、なんか息がおかしいの。すごく苦しそうだから怖くて。あんた、すぐに来れない?」

声の様子から、昨日より緊迫した空気が伝わってくる。
父の食べ残したおかずが頭によぎった。
父が安心するように、私が食べてあげたらよかった、と後悔した。

人工呼吸器をつけている難病の娘を息子に任せて、私は慌てて実家へ向かった。
連絡しておいた訪問の医師がちょうど実家に到着して、ほとんど意識のない父と取り乱している母を神妙な顔つきで見つめていた。

玄関で医師を見送るとき、

「これ以上できることはないので、このまま見守ってあげてください。お父さん、今日か明日にはもう…。」

と母がいないのを確かめてから、医師は私に、悲しい目でそう言った。

私は慌てて妹と弟に電話し、すぐに彼らも駆けつけた。
次々と孫たちもみんな実家にやってきて、父のベッドのまわりは父の大好きな家族でいっぱいになった。

結局、母と私たちきょうだいが順番に父のそばにいることになり、みんなはそれぞれの日常へ段取りをつけに戻った。
しかし全員が、何を待つのかわからないような気持ちで時間を意識しながら、一日中スマホを握りしめていた。

その日の夜遅く、父は静かに息を引き取った。
骨と皮だけになった父の体には、ゆるゆると、白い腹巻きが不器用に巻かれていた。



*****

父はよく食べる人で、若い頃からどっしりと太っていて、腹がぽこんと出ていた。

父に肺の病気がわかってからは、少しずつ症状が進んでいくのが見ていてもよくわかった。
息苦しくて充分に食べることができなくなり、シーズン毎に服をサイズダウンしたものに買い変えなくてはならないほど、父は痩せていった。

見るたびに父は小さくなっていく。

しかし、どんなに痩せても、寝たきりの生活になっても、白いさらしの腹巻きだけは、常に父の腹に巻かれていた。

私がまだ幼かった頃、風呂から出た父が白いさらしを下腹に巻く様子をよく目にした。
長いさらしを踏まないよう、ボックスステップのような足取りで、器用に布を折り返しながら立体的な腹にピシッと白い布を巻いていく。
そんな父が、私にはとてもおもしろかった。

当時の私は、大人の男性ならば誰でも腹にさらしを巻いているものだ、と思っていた。だから、ほとんどの人が巻いていないことを知って驚いた。

「お父さんは、なんでそんなもんをお腹に巻いとんの?」

と父に訊くと、

「お父さんはお腹をすぐ壊す子だったから、腹巻きを巻いたらええんよって、お父さんのお母さんから教えてもらったんやわ。」

と、父がニコニコの顔で教えてくれた。


父は8人きょうだいの7番目で、中学校を卒業後、親元を離れて米屋で働き始めた。
その頃は中学を出たら働いて家族を支える子も少なからずいたらしい。

父は、瀬戸内海に浮かぶ島の出身だ。
島には働く場所が少ないため、働くとなればほとんどの若者が関西方面へ出ることになる。
だから父も、15歳から関西でひとり暮らしを始めたようだ。
けれど、もっと高校で学びたかった父は、翌年には働きながら夜間高校に通い始めている。

まだ少年だった父が家を出て独り立ちをするとき、お腹を壊しやすい父の身体を心配した祖母が、腹に巻くように、と父にさらしを持たせたそうだ。

それからずっと、父はさらしを腹巻きとして巻くようになった。
おかげで腹を壊すこともなくなった、と父は話してくれた。

高校を卒業した父は、漬物屋に就職し、独立して自分の店を持った。


父は毎日、自分で漬物を漬けて、それを店で販売していた。
重い樽や漬物石を持ったり、仕入れた野菜や漬けあがった商品を運んだり、かなり腰に負担がかかる仕事だった。
でも、さらしが腰を支えてくれたので、腰痛で困ったことはあまりなかったようだ。  

さらしの腹巻きは、父の身体をずっと守ってくれていたのだ。


父の愛用しているさらしは、端を縫っているわけではなく、切りっぱなしの白い木綿の布だった。
結婚してからは、妻である母が生地屋で木綿を買ってきて、父のさらしを用意していた。2枚のさらしを交互で使い、生地が痛んだり、ほつれたりしてくると、また新しい生地を2枚新調しているようだった。

大きな父のお腹を何周も巻いていたので1枚が10メートルくらいはあったと思う。汗もよく吸うので、毎日さらしを洗濯するのだが、布が長過ぎて扱いが難しい。
タコの足のようなパラソルハンガーのアームを5本くらい使って、波線っぽくさらしを干すと、絵本で見た一枚の絵を連想する。

「天女の羽衣」

私たちきょうだいは、父の腹巻きをそう呼んでいた。

昔はご近所さんから、父の腹巻きを妊婦の腹帯や赤ちゃんのオシメと間違われて、「奥さん、おめでた?」と母は何度も言われたことがあったらしい。

私は、結婚して実家を出てからは、父の腹巻きを洗濯することはほとんどなかったが、たまに庭に干されている洗濯物のなかに「天女の羽衣」を見つけると、思わず笑みがこぼれた。

父がここにいる、という安心感を、白いさらしは私たちに与えてくれていたように思う。



*****

父が亡くなった日の夜、ずっとお世話になっていた訪問看護師さんにエンゼルケアをお願いした。

葬儀屋ではなく彼女たちに依頼したのは、母が強くそれを望んだからだ。
「よくしていただき、お父さんはあの方たちが大好きだったんやわ。」と、母は拝むようにしながら、私たちにそう話した。

真夜中にもかかわらず、おふたりの看護師さんが実家に駆けつけてくれた。
母は泣き顔の彼女たちを見るなり、ひとりひとりに抱きついて、声を出して泣いていた。
父だけではなく母も、看護師さんたちを深く信頼し、大好きだったことが私たちにも伝わってきて、心から彼女たちにありがとう、と思った。

親族の皆が見守る中で、看護師さんたちは動かなくなった父に「ありがとう、よく頑張られましたね」と、ずっと笑顔で話しかけてくれた。
順番に私たちも父の体を拭いたりしながら、みんなで丁寧に父の体を清めていく。

「お父さんが一番似合う服だから、これを着せたいんだけど。」

と言って、母がエンジ色のポロシャツを出してきた。

「いいわね、似合いそう!」と服を受け取ったあと、看護師さんたちは父の腹からさらしをゆっくり抜き取った。
細い父の腰骨が見えた。

「服を着ていただく前に、腹巻きをどうされますか?」と、ひとりの看護師さんに尋ねられ、すかさず私の妹が

「腹巻きを巻かないと、天国のばあちゃんに父が叱られるから、巻いてあげたいです。」

と答えた。
私も同じ気持ちだった。

父は亡くなる少し前、私と2人で話しているときに、ふと

「おかぁのところに、もうすぐ俺も行くんかな。」

と、苦笑いのような、甘えるような、なんとも言えない表情で言ったことがある。その顔を思い出していた私は、父を失った涙とは違う涙が溢れた。

腹巻きを巻いた父は、ずっと祖母に守られていたのか…。

15歳の少年が、それから生涯を閉じるまでの約65年間、1日も欠かすことなく腹にさらしを巻き続けたのは、母親への愛おしい想いがあったのだと初めて思った。


母が洗濯したさらしをタンスから出して、看護師さんに手渡した。
サッパリと清潔に折りたたまれた腹巻きを父に巻いていく。
私たち姉妹や孫たちも、みんなが手伝って、まだぬくもりがある父にさらしを巻いた。

つい先ほどまで父が巻いていたさらしは、私が形見としてもらうことにした。
ここ数日、父は苦しくて着替えもできなかったので、握りしめたさらしは生地がかなりクタクタになり、父の匂いと父の温度が染みついていた。

その使い古された柔らかさに触れ、冷たく硬い父の手に触れ、この温度差が「生と死」の現実のように思えた。

生きている父がまだ残っている気がして、生温かい布を、すぐに自分のカバンにしまった。

葬儀が終わり、少し落ち着いた頃に、自宅で父のさらしをきれいに洗濯して、庭に干した。
我が家のパラソルハンガーで、父の天女の羽衣が、ひらひらと春の風に揺れている。

「父さん、腹巻きをちゃんと巻いていたから、天国でおばあちゃんに褒められたでしょ。」

青く澄み渡る空は、父が笑っているようだった。









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