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「貝の穴に河童の居ること」日常に潜むトッピキピイ

「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」
語尾がいつも「しゅ」になる河童の三郎のこのセリフがなんとも好きで、時々思い出しては読み返す。

鏡花短編集(岩波文庫)の中の一編。
他の短編もそうだが、古い言い回しの上、聞き慣れない、見慣れない単語が次々に現れて、文章を理解するのにまず一苦労。なので、意味がわからないまま読み飛ばしている箇所がたくさんある。それが読み返すたびに少しずつ減っていくのも、あるいは増えていくのも、この作家の小説を読む楽しさだ。

ちょっと助平な河童をめぐる滑稽で怪しいおとぎ話。

以下、一応あらすじを記すと、
漁師町と、町を見下ろす高台にある鎮守の森のお社が舞台。
近くの沼に住む河童の三郎が磯遊びにやってくる。そこへ娘と、娘がおじさんおばさんと呼ぶ唄の師匠とその亭主で笛吹、という三人組が同じく磯遊びにやってくる。
娘に見惚れた河童の三郎はイタズラしようとして失敗、マテ貝の穴に身を縮めて隠れたところをステッキで突かれて、腕の骨を折ってしまう。
手負いの三郎はお社に出向いて、鎮守の姫神様に折れた片腕の仕返しをさせてほしいと懇願する。
どう見ても三郎の逆恨みだが、事情をきいた姫神様は三郎に同情して、少しだけ三人組を懲らしめてやろうとする。
ところが、いくつかの出来事を経て宿の部屋の中で踊り出す三人組。彼らの滑稽な踊りを見た三郎は思わず釣られて踊り出してしまい、これでは仕返しもできないと、あきらめて帰っていく。

普通に読むと、好色で身勝手でお調子者、だけどどこか憎めない河童の三郎の失敗談。それを作者独特の文体と描写で、怪しくも滑稽な物語に仕立てた大人の童話。河童の個性が強烈なので、自然と彼の視点で読むのだが、あえて視点を変えて、人間の側から話を振り返ると、世界がぐるっと反転して、違った面が見えてくる。

それを端的に表現しているのがタイトルだ。
「貝の穴に河童のいる事」
貝の穴とは、砂浜で見かけるあの小さな穴だ。あの中には普通は貝が潜んでいる。河童がいる、などと誰が想像できるだろう。だが、このときは河童がいたのだ。そうとも知らずに、彼らは貝の穴をステッキで突いて、図らずも河童の腕を折ってしまい、河童の恨みを買うことになる。
貝の穴には貝がいるものだ。そういう人間の常識をぐるっとひっくり返して、常識が通用しない世界がこの世にはあることを宣言している。
「実は人間は、この不可思議な世界に住む河童などのもののけや神様のお情けで、この世に生かしてもらっているのだよ。そこに思い至らずにうっかり調子に乗っていると、思わぬしっぺ返しを食うことになるよ、知らないよ」
ページの向こうから作者がちょこっと顔をのぞかせて、ニヤリと笑ってそんなふうに語りかける、「あけびを裂いたような口を開けて、ニタリと笑った」河童の三郎の顔に、作者の顔が重なって見えるようだ。

以下、三人組の立場から話をたどってみる。

すぐそばに河童が潜んでいることに気づかずに、磯遊びに興じる三人組と付添の宿の番頭。やがて彼らの身の周りでちょっとした不可解なことが起こる。
濡れないように岩の上に置いていた娘の足袋が、なぜか濡れている。
宿の番頭の自慢の長靴に、いつの間にか穴が空いている。
読者にはそれが河童のせいだとわかるけれど、当の人間たちは、どうしてそうなったのか皆目見当もつかない。

こういうちょっとした不可解な出来事に出会うのは、私たちの身近でもそれほど珍しいことではないだろう。たいていは勘違いだったり後で原因がわかったりすることだが、中にはいつまでも原因のわからないこと、不可解なままやり過ごして、やがて忘れ去ってしまうことがある。
そういう出来事の中に、実は河童が潜んでいる場合があるかもしれないのだ。

折れた片腕と人間への恨みを抱えて、お社へと続く石段を上っていく河童の三郎。境内にたどり着くと、その場に額ずいて、姫神様へ訴える。

「御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前の仇を視ながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わぁ」

わざとらしく泣きながら仕返しを懇願する河童の三郎。姫神様は「任侠のご気風」を発揮して、三郎の仕返しを助けることにする。
お社の神主らしい翁や、千里眼のミミズク女、下駄を揃える烏やら太鼓を叩くウサギ、そのほか狐、蛇など、鎮守の森のもののけたちが姫神様のもとに集まってくる。
三郎の懇願を受けて、神主の翁が言う。

「おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生命を奪ろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹はめかち、女どもは片耳殺そぐか、鼻を削るか、あしなえ、びっこどころかの――軽うて、ひきつけ……やがて、息を吹返さすかの。」

三人組にとっては恐ろしいセリフである。知らないこととは言え、河童の腕を折った代償に(実際にステッキで突いたのは宿の番頭だが)ひどい目にあおうとしている。「まさかに生命をとろうとは思うまい」という言葉は、もののけたちは人の生命をとろうと思えばとれるのだ、ということを表している。

自分の言動が予期しない結果を招くのはよくあることだ。何気ない行為が知らないうちに誰かの機嫌を損ねたり。その誰かが妖怪やら幽霊やら得体のしれないものだとしたら、どうなるか。
最初に河童の三郎が考えた仕返しは、

「えい、神職様。マテ貝の穴にかくれた小さなものを虐げました。うってがえしに、あの、ご覧じ、石段下を一杯に倒れた血みどろの大魚を、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、歯ッかけ、大きな賽の目の出次第が、本望でしゅ。」

三人組にとって幸いなことに、この案は却下されるが、どんなひどい目にあってもおかしくない状況に陥っていることに違いはない。
その三人組を仕返しから辛うじて救ったのは、彼らのちょっとした信仰心だった。

まず、三郎が助平心から海辺で遊ぶ娘にいたずらしようとしたとき、三郎の手を押し留めたのは、娘の持つ御守りだった。
海中から娘の足元に近づいた三郎だが、ふと、娘の身につけた御守りが目に入る。「鬼子母神の御影が見えたでしゅで、蛸逃げで、岩を吸い、吸い、色を変じて磯へ上った」
身につけていた鬼子母神の御守りのおかげで、娘は河童のいたずらを免れた。御守りが、まさにもののけの障碍を退散させたわけだ。
その後、磯での貝の穴の一件があり、河童に怪我を負わせたことに気づかないまま、やがて夕刻。町へ遊びに行くために宿を出た三人組は、不意に何かに憑かれたように、または操られるように、踊りだしてしまう。

「三人の右の片手三本が、ひょいと空へ、揃って、踊り構えの、さす手に上った。」

はっきりと言及されてはいないが、どうやらお社の姫神様の仕業のようだ。
道端で突然踊りだしてしまう三人組の足元に、姫神様の意を受けた蛇が襲いかかろうとする。そのとき、笛吹の叔父が踊りながら拍子に合わせて唄っているのが姫神様の耳にとまる。
「なんと唄うえ?」と姫神様。千里眼のフクロウ女が答えて、唄の文句を伝える。そこには「諏訪、富士」の地名が。
それを聞いた姫神様、「それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち」と、蛇たちを危ういところで呼び戻す。三人組は辛うじて厄災を逃れる。「諏訪」も「富士」も、山の神様として信仰の対象であり、姫神様とは縁深いだろう。
宿に戻った三人組は、いきなり踊りだしたことを不思議に思い、あれこれと話し合ううちに、鎮守の森の姫神様へお参りしていないことに思い至る。
そこで叔父が提案する、突然踊りだしたのは、「ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五月雨の徒然に、踊を見よう。――さあ、その気で、あらためて、ここで真面目に踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、わざとそれをお持ち、真面目だよ、さ、さ、さ。可いかい。」
宿の部屋から、鎮守の森のお社に向かって「慎み深く手をつかえて」三人組は神妙に奉納のつもりで踊りだす。
それは、傍から見れば、かなり滑稽な場面だろう。部屋の障子を開け放って、叔父は笛吹き、叔母はすりこぎ、娘は杓子を手に、ちゃぶ台の周りを踊りながら巡るのだ。

彼らの踊りを見たお社のもののけたちの反応はどうだろう。

「泡を吐き、舌を噛かみ、ぶつぶつ小じれに焦れていた、赤沼の三郎が、うっかりしたように、思わず、にやりとした。」
姫神様は「一管の玉の笛を、すっとぬいて、丹花の唇、斜めに氷柱を含んで、涼しく、気高く、歌口を」と、踊りに合わせて笛を吹く。
さらに「みみずくが、ぽう、と鳴く。
 社の格子がさっと開くと、白兎が一羽、太鼓を、抱くようにして、腹をゆすって笑いながら、撥音を低く」といった調子で、町の人間とお社のもののけが踊りのリズムに乗って一つになる。
やがて三郎も「河童の片手が、ひょいと上って、また、ひょいと上って、ひょこひょこと足で拍子を取る。」
それを見た姫神様、すかさず「三人を堪忍してやりゃ」
三郎は「あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。――藪の穴から狐も覗いて――あはは、石投魚も、ぬさりと立った。」とついに仕返しを諦める。帰ろうとする三郎に、姫神様は手持ちの扇を与える。

これは姫神様が三人組を操って、見事に八方丸く収めた、ということかもしれないが、それにしても三人組は姫神様への奉納踊りによって、河童の腕を折った罰を何とか免れた。三郎の恨みを鎮めることができた。神事に付きものの「踊る」という行為の意義を示唆しているようで、とても興味深い。
こうして、たまたま持っていた御守りや、何気なく口にした諏訪や富士の唄、お社への奉納踊りによって、三人組は難を逃れることができたのだが、自分たちがどんな災難を免れたのかを彼らは知らない。そもそも災難に遭おうとしていたことさえ、知らずに終わる。娘は、もし御守りを持っていなければ、河童にお尻を触られていただろう。海中のことなので、河童に気づいたら、びっくりして溺れていたかもしれない。
通りで踊っているときに、もしそのまま蛇に襲われていたら、畑に転落して、悪くすれば骨折していたかもしれない。
だが、人間には起こらなかったことを知るすべはない。

例えば変わり映えのしない、とある一日。いつものように仕事に行って帰ってくる。特に災難と呼べるようなことは何も起こらなかった一日。だが、ひょっとしたら、初詣のときに手に入れて、机の引出しに入れたまま忘れていた御守りのお陰で、何かから守られていたのかもしれない。
それは御守りや神様に関わることに限ったことではないだろう。起こらなかったことを知るのは不可能だが、何も起こらないことが、実は災難を免れた幸運の証だということもありえるのだ。ふと、そんなことを考えさせられる。

最後に「トッピキピイ」とはなんぞや?
あれこれ検索してみると、祭ばやしの笛の音からきているようで、これも祭や神事と深く関わっている。
とにかく怪しくてトッピキピイな大人の童話だ。

岩波文庫
鏡花短編集
川村二郎 編

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