小説『知の黎明にて』

3 リンデ氏のうちあけ話

さて、どこから書こう。

我が最愛の友リンデ氏のことならなんでも知っているから、伝記本の一冊でも二冊でも書く自信はある。しかし如何なものだろう。「リンデ氏は○○年、父○○、母○○との間に次男としてどこどこに生まれ、父○○は○業を営んでいた、幼いリンデは…」などと片っ端から順に書いていったらきっとわたしは五行で飽きてしまうだろうし、読まれる方はなおさら三行くらいが限度だろう。わたしが書きたいのは彼の生い立ちではないのだ。

あれはいつのことだったか。わたしはリンデ氏に、わたしの姉の名前について訊ねたことがあった。いや、姉の名前というよりはリンデ氏の奥方の名前といおうか、否、わたしの名付け親の母親の名前といおうか、さらにはリンデ氏のご令嬢も。ともかく彼女たちはみな「Ludwika」という名前を持っていた。リンデ氏の奥方は実は二人目の奥方で、一人目の奥方はわたしが中等教育学校に入学した年に亡くなった。翌年新しい奥方を迎えたわけだが、これもまた前の奥方も今の奥方も名前をLudwikaといったのだ。わたしの国ポーランドではたいてい、名前はカトリックの聖人の方からいただいて付けられる。わたしの名はFryderykというが、これもわたしの両親ではなく、父の恩人であるところのスカルベク伯爵のご子息、Fryderyk氏より同じ名を命名していただいた。わたしの名付け親Fryderyk氏の母親スカルベク伯爵夫人もLudwikaであり、わたしの姉Ludwikaの名付け親であった。ある日わたしは、なぜわたしの周りにはこうもLudwikaが多いのか、と冗談半分に訊ねたことがあったのだ。むろん、半分は冗談だった。Ludwika自体はよくある名であるし。そうしたらなんとリンデ氏はいきなりわたしの方へ意味ありげに顔を寄せ、おい、おまえ、ここだけの話だぞ、けっして他に口外してはならぬぞ、と言った。「特に父上にはぜったいに言ってはならぬ」

- - - - - 

リンデ氏は1771年、当時のポーランドとプロイセンの国境の街、トルンで生まれた。これくらいは記しておいてもいいだろう。わたしの父と同い年であり、同じ頃の生まれの著名人には敬愛なる音楽家Ludwig van Beethovenもいる。まあ、それくらいの世代だ。トルンという街を説明するのは少々難しい。一見、こぢんまりとした美しい街である。旧市街には中世騎士団の建てたレンガ造りの建物が並び、街の南には広大なヴィスワ川が流れる。堅牢さと美しさ。そしておとぎ話の主人公がふと顔を覗かせそうな街角。端から端まで二十分ほどで歩けてしまう小さな、しかし魅力あふれる愛しい街だ。この頃、ポーランドという国は周辺強大国の侵略を何度も受け、内政も混乱し、戦争が何度も起き、そのたび国境線が書き換わっていた。このトルンの街も歴史上いろいろな国の持ち物になった。リンデ氏が生まれ育った頃はポーランドとプロイセンにちょうどまたがったところにあり、旧市街地にはポーランド人が、新市街地にはドイツ人が、それぞれ住んで生活を営んでいた。

リンデ氏の実家は新市街の市場広場にほど近い一角にあった。家は錠前屋を営んでいた。年のだいぶ離れた兄上があり、リンデ氏が学校に通う頃にはすでに家を出て別の街の教会で聖職者として仕えていた。ご両親はしばらく健在であったが、しかしその当時、街の経済は時世に流されるように傾き、どこも経営苦に喘いでいた。リンデ氏の家も例外ではなく、彼が高校に通う頃にはもう、一家は明日の朝のパンにも事欠くようになっていた。やむなくリンデ氏は学業の合間に働きに出ることになった。とはいえ、これという手に職を持たない高校生の彼にできる仕事など限られている。彼が任された仕事は、家庭教師だった。

元々リンデ氏は聡明な少年だった。年頃の少年のわりに風体はさえず、これという得意技も持たず、正直さだけが取り柄の愚直な人間であったが、勉学にだけは秀でていた。彼は子どもの頃から熱心に教会に通い、そして教会に通ってくる子どもたちに勉強を教えていた。そのリンデ少年にある銀行家が声をかけた。うちの娘の家庭教師を探しているのだが、引き受けてもらえないだろうか、給金ならこれこれ渡すぞ、いかがかね、云々。その銀行家、リンデ家とも取引のある街の大銀行家だった。提示された給金は素晴らしい額であった。これで家族は当面、食うには困らない。リンデ少年は躊躇なくこの申し出を受け入れた。

銀行家フェンガー氏の宅は同じ新市街のヴィスワ川沿いにあった。零細の商売人にはなかなか近寄ることもない高級住宅街だが、そこはリンデ家から歩いて五分ほどのところにあった。その日の夕刻、指定された時間に訪ねていくと玄関口にはすでに小間使いとおぼしき若い女性が立って待っていた。

「失礼します。リンデ家から来た、サムエル・ゴットリープ・リンデと申します」

小間使いはリンデ氏がそう言い終わらないうちに、待ってましたよ、と言わんばかりに玄関扉を開き、早々に彼を家の中へと招じ入れた。彼は恐縮しながら足をその扉の中へと踏み入れた。彼は驚いてしまった。ここは教会か、はたまた学校か、これほどの大広間が教会や学校の教室ではなく、一家庭の中にあるとは!

しかしその大広間はフェンガー家にとっては単に玄関ロビーに過ぎなかった。奥の階段から恰幅のよい初老の男性がこちらに向かって降りてくる。ヤクブ・フェンガー氏である。この大豪邸の、そしてトルン・フェンガー銀行の主だ。ヤクブ氏は柔和な面立ちで一歩一歩、こちらへ向かってくる。リンデ氏は、何も悪いことなど一つもしていないというのに、緊張のあまり玄関口の前から動けなくなっていた。リンデ氏の頭の中でヤクブ氏の足取りはまるでスローモーションのようにゆっくりと、ゆっくりと、感じたのだったが、実際はヤクブ氏はせっかちな人にありがちな大股でかかとを軽く床に叩きつけその靴音を楽しむように早足でリンデ氏の方へ向かってきた。

「やあ、はじめまして。ヤクブ・フェンガーです。父上から話は聞いてますね」

「あ、はい」

「さっそく案内しよう。エレナ、ルドヴィカを呼んできて。きみはこちらへ」

先ほどの若い小間使いはエレナというらしい。エレナはよく訓練された小間使いらしく、ヤクブ氏の言葉を最後まで聞き終わらないうちにもうヤクブ氏にも勝るとも劣らぬ早足で階段を駆け上がっていった。リンデ氏もヤクブ氏の歩幅に合わせてなれない早足で付き従った。

エレナはほどなく、一人の女性を連れて居間へ現れた。

「ああ、ルドヴィカ、こちらへ来なさい」

ルドヴィカ、と名指しされた女性を見てリンデ氏は驚いてしまった。

「娘のルドヴィカだ。彼女に読み書き算術、それにきみが知っている限りの知識を教えてやってほしい」

ヤクブ氏は傍らに参った娘のルドヴィカの肩を愛しげに抱き、笑みを浮かべてリンデ氏にそう言った。

「はい、よろしく、お願いします……」

リンデ氏が驚いてしまったのは、家庭教師の生徒たるヤクブ氏の娘のルドヴィカが、子どもではなく、おそらく自分より十は年上であろう、十分に成熟した女性だったからだ。

- - - - -

このくだりをリンデ氏が語った時、わたしはこの物語の半分くらいはもう理解した気がした。それはリンデ氏の、とうにいい年を召した、髪も顎の無精髭も半分以上白くなった初老男がなんと、かるく頬を上気させたのだ。