小説『知の黎明にて』

4 リンデ氏の打ち明け話 二

トルンのフェンガー家と言えば、トルンはおろか、広くポーランド中でも知らぬ人はないほどの名家であった。否、名家という呼び方はいささかそぐわぬかもしれない。名家とはこの時代、貴族階級に対して用いるものであったから、フェンガー家は名家と言うよりは、有名家といおうか、ほぼ一代で巨万の富をなした大実業家であった。トルン・モストヴァ通りの豪奢な本邸はいうまでもなく、ほかにいくつも別宅を持ち、遠くグダンスク、ワルシャワなどにも事業所を構え、あらゆる業種の事業者と取引を行い、利益という利益を彼の懐へと引き寄せていた。

ルドヴィカ嬢はその一大実業家ヤクブ・フェンガー氏の一人娘であった。それはもう、目に入れても痛くないという表現では事足らぬほどの溺愛ぶりであった。初対面のリンデ氏の目には十も年上の成熟した女性に映ったものの、実際は五つかそこらで、それくらい、さえない風体の高校男子にルドヴィカ嬢は神々しく、この世のものとは思えぬほどの、別世界の美しさと艶やかさをそこに見出したのであった。あいにくわたしがこのルドヴィカ嬢と知己を得た時、彼女はすでにいい年をしたそこいらのご婦人と同じであったし、我が母の方がずっと若く見目もよかったから、まあ、そんなものだなと、リンデ氏の話にはてきとうに相づちをうちながらそのまま耳を傾けた。

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おかげでリンデ家は食うか食えぬかの苦境からは逃れることができていた。家庭教師の仕事は週に二日ほど、一度に一時間、ときに二時間、読み書き算術を教えては帰り際に給金といくらかの食い物を持たせてもらえた。その給金は、父親が本業の錠前工で稼ぐことは、とうの昔にできなくなっていたような額だった。

「なあ、おまえ」

リンデ氏はやにわに言葉を切って、わたしの方へ向き直った。

「人々は巨万の富を持つ者を見ると、うらやんだり、妬んだり、あるいはへつらったり、とかく捻れた心を抱くものだ。だがな、本当に大業を成し遂げる人物というのはだな、心も真に優れておるのだぞ」

「……はい」

リンデ氏は遠い目をして、また話を続けた。

リンデ氏の父親は、壊れたきり直せず使い物にならなくなっていたいくつかの機械を修理した。それからまたいくらか仕事が舞い込むようになった。午後に学校から戻ると、家から鉄を打つ音が響くのが聞こえる。しばらく聞いていなかった懐かしい音だ。リンデ氏はその音を聞きつつ、身支度を調え、またフェンガー家へと向かう。うら若い大人の女性である一人娘の家庭教師を高校生に頼むなど、フェンガー氏がなぜ考えついたのかは知らぬ。が、リンデ氏は内心で、もしかしたら親がフェンガー氏に借金の申し出でもしたのではないか、と訝っていた。そしてフェンガー氏は金ではなく、きっと〈仕事〉を恵んでくれたのではないかと。

ルドヴィカ・フェンガー嬢は美しいばかりでなく、奥ゆかしく立ち居振る舞いも深窓のご令嬢そのもので、また、時折見せるはにかんだ笑みには、風体のさえない高校男子といえども、心をつかまされずにはおれないのだった。勉強に対しても非常に熱心であり、何事も教えるそばから覚え、理解し、身に体していった。そして人柄も大変素直であった。ある時リンデ氏はルドヴィカ嬢に、今まで学校や家庭教師の先生とこのようにお勉強をなさったことはありますか、と問うたら、以前に何名か、家庭教師の先生が来てくださったことがありました、しかしあまり長くは続きませんでした、とおっしゃった。なぜ? そう問うと、曰く、ある年配のご婦人であった先生は躾や作法には厳しかったのだけど、ご本のお勉強にはあまり熱心でなく、また別の若い男性の先生は露骨に下心をお見せになってお父様に気づかれて、別の年配の紳士はお勉強の時間があまりに退屈でお父様にお願いして、それぞれお引き取りいただいたのだという。そうお答えになった後、ルドヴィカ嬢は、でも、先生のお勉強はとても楽しくて、先生のお授業は大好きです、と頬をいくぶん赤らめつつおっしゃった。

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「なあ、おまえ」

リンデ氏はふたたび言葉を切った。遠い目をしたまま。

「あの時はな、神様はどうしてわたしをあと五年、否、三年でいい、早く生まれさせてくださらなかったのだろうと、はは、真剣に思ったものだよ」

「……ええ」

「そうなさらなかったのが、神様の御心だったのだけどね」

「……ええ」

リンデ氏はそのまま先を語らず、遠い目をしたまま両手を膝の上で組んだ。

だからリンデ氏に替わって、わたしからルドヴィカ嬢のお勉強について少し補足しておこう。

ルドヴィカ嬢はリンデ氏の下で勉強するようになった当時、すでに齢二十二の妙齢のご令嬢であった。縁談の一つや二つも来ていてまったくおかしくはない。しかも大富豪ヤクブ・フェンガー氏の一人娘である。実際、美しく控えめなルドヴィカ嬢には以前よりいくつもの縁談が舞い込んできていたのだが、それを父親は片っ端からはねのけていた。こんな輩に愛娘はやれぬ、そう言っている間にルドヴィカ嬢は十七から十八へ、十九から二十、そして二十歳を超えてとうとう二十二歳にと年を重ねてしまった。この頃の女子が二十歳より前に嫁ぐのはごく普通のことであったから、ルドヴィカ嬢は適齢期か、むしろやや逃している感すらあった。むろん、父親も一生手許に愛娘を置いておくつもりは毛頭なかったのだが。

フェンガー氏にはやむにやまれぬ思いがあった。

フェンガー氏は一代で巨万の富を築き上げた大人物であった。一大銀行家であり、一大事業家であった。望めばなんでも手に入る。ほしいと思えばなんでも手中にできる。そのフェンガー氏がたったひとつ、どうあがいても手に入れられないものがあった。それは爵位であった。

この頃、どこの国でもそうだったのだが、社会には貴族階級、中産階級、農民階級とおおまかに身分が分かれていて、世の中はこの階級を軸に回っていた。ポーランドにおいては貴族階級が全国民の二十パーセント近くを占め、それぞれ土地を有し、治めていた。また国政に参加できるのも貴族階級のものに限られていた。農民階級は貴族階級に雇われ畑作に勤しみ、中産階級は工業や商業などを担った。リンデ氏もわたしの父も中産階級の出である。そしてフェンガー氏も。フェンガー氏の事業の成功が、貴族階級への欲をもたらしたのか、あるいは貴族階級への欲がフェンガー氏を一大富豪へと押し上げたのかはわからぬ。いずれにせよフェンガー氏には貴族階級への強い思いと引け目があり、それが彼の仕事への原動力であったことは否めない。聞いた話によると、彼は巨額の財産を引っ提げて政府に爵位を申請したことがあったが、ことごとく却下されたという。理由はわからぬ。しかし、だから彼には、娘だけは……ということさらな思いがあったのだった。

フェンガー氏は貴族階級の殿方との縁談を待った。待ち続けた。娘にはその佳き日のために美しさや奥ゆかしさだけでなく、貴族のご令嬢にも恥じぬ知識と教養を授けんとしたのであった。

だからたとえリンデ氏があと三年や五年、早く生まれていたとしても、彼がルドヴィカ嬢に求婚し思いを遂げることは、やはりなかったのである。