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読書感想文「一汁一菜でよいという提案」(土井善晴)

「一汁一菜でよいという提案」

これがこの本のタイトルだが、たったこれだけの言葉が、料理をする多くの人を苦しみから解放し、また失われつつある和食、延いては日本人の美徳の息を吹き返させるほどのメッセージを持っている。強い言葉ではない。謙虚で穏やかな優しさに満ちていながら、芯の部分に力強さを思わせる言葉だ。土井先生が説いたのは、一汁一菜という和食の型であり、その背景としての日本人の伝統的な、美しい生き方そのものであった。


自分で料理する時、私もまた献立に悩んでネットでレシピをあれこれと調べるような一人であった。毎回違う料理でなければならない、人に食べさせられるような美味しい料理でなければならない、見てくれの良いものでないといけないと無意識に考え、違う料理を作ろうとしたり、同じ料理ばかり作る自分を責める気持ちを持っていた。でも土井先生の「一汁一菜でよい」という言葉一つに救われた気がした。食事は他の家事と同等に生きる事とセットのもので、生きていく限り続けていく必要があるものであるから、シンプルで良かったのだ。淡々と続けることに意味があったのだ。


また私の生活には秩序というものが欠けていた。洗濯物は溜める、掃除は毎日はせず、睡眠時間はバラバラで、食事の時間も日によって違い、学校や勉強で心身が精一杯。日本人らしく季節の移ろいを食材や植物、行事によって感ずることも少なければ、些細な物事に喜びの心を向けられていなかった。二十四節気もよく知らない。日本人らしい感性や繊細さ、静かなる強さが欲しいのに、その基盤となる暮らしが疎かになっていた。土井先生が書かれたように、一汁一菜は暮らしに秩序を与えてくれると思う。毎食淡々と一汁一菜をすることが一日のリズムになるし、食材に触れる事で自然とつながり、季節の中で生きる事が出来る。自分もこのように生きるべきだと思った。


土井先生が書籍の中で書かれていた、「脳が喜ぶおいしさと、身体全体が喜ぶおいしさを区別する」ということに関して、やはり日本人である私は凄くこれが理解できるし、「身体全体が喜ぶ感覚」を既に知っている。それは私にとっては、最愛の元恋人や仲の良い友人Aが作ってくれる料理による感覚であった。口にした瞬間に「んー!美味しい!」となるようなものを多く食べて子供時代を過ごしてきたが、元恋人や友人Aが作ってくれる料理は違っていた。穏やかで、優しく、澄み切った静寂の中に繊細なおいしさがあり、お腹いっぱいでなくても食べ終わった後の満足感が段違いであった。例えるならば、全身のすべての細胞が温泉に浸かって「はあ〜〜」となっているような感じだ。それは紛れもなく愛情であった。作為的に作られた味ではなく、それぞれの食材がなるべくしてその味になっていた。作ってくれた料理には洋食もあったが、それこそが和食の型なのだなと思ったし、またそうしたおいしさを感じ取れる私は根っから日本人なのだなと思った。


日本では食に限らず様々な情報が錯綜し、混沌としている。それはもはや新たな文明とまで言えそうだ。そうした時代に生きる私は、新しいものとは上手く付き合いながらも、伝統的に続いてきた日本の文化を大事にしていたい。地に足のついた日本人らしい、慎ましく穏やかで豊かな生活の中で、物事の判断基準や本質を見極める力を養っていきたい。


毎日お米を食べて、味噌汁を飲もうと思う。

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