死を見つめるのは難しい
人は必ず死にます。私も、あなたも、この世界に生きるすべての人は例外なく死にます。にも関わらず、人はたいてい、死を意識せずに日常を生きています。これは、なかなか不思議なことではないでしょうか?
何かしらの形で(本当に)来世を信仰している人ならば、もしかしたら死はあまり問題にはならないかもしれません。天国に行けるだろうとか、死んだ親に会えるだろうとか、そう本当に信じている人にとっては、ある意味(つまり最終的な「終わり」としての)死は存在しないとも言えるでしょう。霊魂不滅ということです。
しかし、そうではない人、私も含めたその種の信仰をもたない人にとっては、死はあまりにも大きすぎる問題です。なぜって、死んでしまったら、私はもはやいかなる意味においても存在しないのです。どんなにお金を貯めこんでいようが、名誉を得ようが、楽しいことを経験しようが、苦しいことを経験しようが、最後にはすべて無に帰してしまうというのは、一体どういうことでしょうか?
我々は普段、どこに勤めて年収がいくらだとか、結婚しなきゃとか、貯金しなきゃとか、この政治家はけしからんとかいろいろ考えているわけですが、このすべてが意味をなさなくなってしまうような「死」については考えていません。「死」を考えないことが日常性を成り立たせていると考えれば、これは当たり前の話なのですが、しかし、「死」という重大すぎる問題をなぜ考えずに済ますことができてしまうのでしょうか。
ちなみに、ここで言う「死」とは、もちろん、他人の死という事件のことではありません。そのような「死一般」のことではなく、あくまで「私の(あるいはあなたの)死」が問題なのです。
ハイデガーは
と言っています。「死」とは「私の死」であり、さらにいえば、その「私の死」とのかかわりこそが、問題であり、「存在する」ものなのです。となると、現存在でない存在者にとっては死は「存在しない」と言うこともできそうです。
しかしここではひとまず、「死」を「私の死(という出来事)」というような意味として考えていきたいと思います。
私たちは死は確実なものだと知っています。しかし、確実であると覚っているわけではありません。
「死がやってくるのは確実だ。しかしとりあえずは、目の前のこの問題が先だ」という風にして、私たちは常に死を遠ざけます。実際、みんなが死を意識し、死が確実であると覚ってしまっては、社会は成り立たないかもしれません。しかしだとしても、(私も含めて)ひとがまるで無限に生きるかのように日々生きているということは、とても不思議なことのように思えます。
死刑囚や末期の病人などはもしかしたら違うかもしれませんが、たいていのひとは、まだ当分は生きるだろうと常に思っています。理論的には死はいつでもやってくる可能性があるものです。それは突然の病気かもしれないし、事故かもしれない。しかしそれは少なくとも今すぐではないのです。私の父は高血圧などの理由から「自分は長生きできないだろう」と言っています。しかしそこには、「まだ生きるだろう」という思いがあり、おそらく本当に死ぬその時まで、「まだ生きるだろう」と思い続けるのではないでしょうか。ひとが日常的に死を考えるときには、このようにならざる負えないのではないかと思います。
なぜこのようなことが発生するのでしょうか?
その理由の一つには、死がいつやってくるのか分からないという意味で無規定的なものだからというものがあるでしょう。
死は、本来は理論的には「あらゆる瞬間に可能」なわけですが(つまり無規定的)、とはいえそれは「いずれいつかは」という形で遠くに追いやられます。このような形で死の時期の無規定性が規定されるということ、しかも日常的なさまざまな事柄を手前に押し込んでおくというふうにして、死を設定するということ。このことが、私たちが「死は確実だ」と覚ることを妨げているのだと思われます。
なんだかハイデガーの受け売りになってしまいました。当然、これで死の不思議さが解消されたわけでは(まったく)ありませんが、ひとまずこれで終わりたいと思います。しかしハイデガーの死の分析って、結構すごいですよね?よく「解像度が云々」と言ったりしますが、この死と日常性の分析は、それこそ「解像度が高い」と言える気がします。
追記
ところで、死を見つめることは難しいという話をしてきたわけですが、しかしこれは不可能なことではないと思います。死期が近い人やごく一部の人は、普通の人よりも強く死を想うことが、死と関わることができるのではないでしょうか。私も小さい時に、夜、死を想って戦慄した記憶があります。夏になったのでそろそろ『異邦人』を読み返そうと思っているのですが、ムルソーも死を強くとらえている人間の代表例なのではないかと思います。
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