『罪と罰』⑤ 犠牲の大きさ
またタイトルを少し変えました。なかなかしっくりくる題名のスタイルが見つかりません😅
ドストエフスキー『罪と罰』の引用とその説明・感想を書いているわけですが、この感想、ちょっと高級に?言えば解釈を提示するというのはなかなか難しいです。というのは、たとえば「ラスコーリニコフはこういう思想だ」「それにソーニャがこういう影響を与えてこう変わったんだ」と「説明」してしまうと、小説の醍醐味が薄れてしまうと思うのです。
そういう風に、まるで論文を読むかのようにこの小説を読んでしまっては、大事な部分を取りこぼしてしまうような気がします。なので、あくまで小説という表現形式でかかれているということを忘れずに、文章やそこで描かれている登場人物たちを、そのまま受け取ることが大切なのではないでしょうか。
えーというわけで、前置きはこれくらいにして本題に入ります。前回の続き、ラスコーリニコフが母からの手紙を読んで憤慨しているシーンです。何に憤慨しているのかといえば、妹のドゥーニャが、家族、特にラスコーリニコフのために自分を犠牲にする形でルージン氏との結婚をしようとしているからです。ラスコーリニコフはその自己犠牲のあり方に、ソーニャの姿を重ねます。
ラスコーリニコフはドゥーニャについて語っていたのですが、そこにソーニャが重ねられていきます。なぜこの二人が重ねられるのかはすぐ先に詳しくでてきますが、要するにこの二人は誰かの、さらにいえば世界の犠牲者なのです。
ソーニャの運命とは、貧困から抜け出せずに家族のために売春をする生活、そしてそれがおそらく死ぬまで続くであろうこと、つまり踏みつけられた人生を送るであろうということです。ここでドゥーニャの進んでいる道を認めてしまっては、そういう生き方を(あるいはそのような世界を)肯定してしまっているのと同じだ!とラスコーリニコフは考えます。
この考えは『カラマーゾフの兄弟』のイワンに似ている気がしますね。
イワンはここで反駁の余地をなくし、問題を明確に示すために「子供の涙」に限定して話をしていますが、しかし構造は上のラスコーリニコフのセリフと同じとみていいでしょう。とくにソーニャは「子供らしい」というような描写があった気がしますし、無垢な子供であるポーレニカ(カチェリーナの子供)にソーニャと同じ運命が見いだされるシーンもありますから。
果たして、抑圧された者の涙が、あるいは自らを安売りしなくてはいけない者の悲しみが、償われるということはあるのでしょうか?
続けてラスコーリニコフはこう語ります。
ずいぶん長く引用してしまいました。でもそれだけの迫力をもった文章だと思います。
マルメラードフは以前、ソーニャの売春について「小ぎれいにする必要がある」ということを言っています。そういうソーニャの売春行為と、ドゥーニャが今からやろうとしていること(結婚)は少しも変わらない、どころか切迫度合いが若干低い分だけなお悪いかもしれない。ラスコーリニコフはこのように考えます。
結婚相手に愛情をもてず、それどころか尊敬もなかったとしたら?お金などの必要性しかないとしたら?
それはつまり自分を売っているわけですが(そして商品はキレイにする必要があります)、それは売春とどれだけ違うのでしょうか。
この太字になっている「小ぎれいにする」という部分、光文社古典新訳文庫の亀山訳では「清潔にしている」となっています。こっちの方がより生々しいかもしれません。まぁとにかく、そういうことです。
そして「金がかかるんですよ」という部分。ここは亀山訳では「高くつくんだよ」となっています。より意訳している感じがしますが、こっちの方がこの場面では自然かもしれません。つまり、ただ単に金銭的に負担がかかるというだけでなく、人生そのものに影を落とすであろうというニュアンスがあります。
ところで亀山訳は、とくに『カラマーゾフの兄弟』なんかは、専門家からかなり批判されているイメージがありますが、どうなんでしょう。たしかにこの『罪と罰』も、全体的には江川訳のほうが出来が良い気がしますが(読みやすいという意味で)、だからといって亀山訳を全否定するわけにもいかないと思います。
亀山さんは他の著作などを軽く見た感じ、『罪と罰』を特に好んでいる印象があるので、これに関しては信頼していも良いのかもしれません。どのみち私はロシア語なんてさっぱりわからないので、そこら辺の細かい話は自力では判断のしようがないのですが。
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