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ドストエフスキー『罪と罰』⑩(一線を踏み越える)

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 シリーズ全体はこれ↓


 ラスコーリニコフは青年将校たちの話を聞いていた酒場から家に戻ってきた。それで翌日の昼まで寝ていたのだが、ナスターシャ(アパートの使用人みたいな人)が起こしにくる。ずっと寝ているラスコーリニコフに、心配半分・イライラ半分といった感じで話しかける。

「また眠るの!」
ナスターシヤが叫んだ。
「あんた、病気じゃないの?」

『罪と罰(上)』岩波文庫 p.142

「ほんとに、病気かもしれないよ」
彼女はそう言うと、くるりと後ろを向いて出ていった。

同上 p.142

「いつまで寝る気なのさ!」
彼女はいやらしそうに彼を見おろしながらどなった。彼は起き上がってすわりなおしたが、彼女にはひとことも答えず、床を見つめていた。
「病気なんじゃないの?」
ナスターシヤはまたたずねたが、やはり返事はなかった。

同上 p.143

 ナスターシヤは何のかんの世話をしてくれるので、粗暴だけどいい人だと思う。しかし注目すべきは、ここで何回も「病気じゃないの?」というセリフが登場している点だ。これによって、ラスコーリニコフが病的な状態にあるということが暗示されていると思う。似たようなことを以前書いたことがある。↓

 また、このシーンの少し前で、ラスコーリニコフはもはや自分が自由ではないと感じている。それは言い換えるなら、なにか魔力に取りつかれているということだ。なぜならそのさらに少し前のところで一旦は「彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である! (p.129)」と彼が自由で健康な状態になったと謳われているからだ。

 しかし今はもうそうではない。そのことが、繰り返し語られるナスターシヤのセリフからうかがえる。


 この後の準備のシーンもなかなか面白いのだが、引用は控えておく。斧をぶら下げるための裁縫とか、偽の質草の作成とか、細かな工夫がリアルさを醸し出す。


 ひと通り準備はしたが、彼はまだ迷っていた。

それにしても、問題の道徳的な面の解決という意味では、彼の分析はとうに終わっていたはずだった。彼の論理は、剃刀のように鋭利に組み立てられ、もう自分の中には意識的な反駁を見いだせなかった。
しかしぎりぎりの点になると彼は、まったく自分に信頼が持てず、まるでだれかにむりやり引っぱって行かれでもするように、頑固に、やみくもに、あちこち手さぐりで反駁を捜し求めていた。

同上 p.149


 彼はなぜ世の中の犯罪者はああも簡単に嗅ぎつけられ、露顕してしまうのかと考え込む。そして次のような結論を思いつく。

犯罪者自身が、それもほとんどすべての犯罪者が、犯行の瞬間に、意思と判断力の一種の喪失状態におちいり、そればかりか、判断力と慎重さがもっとも必要になるまさしくその瞬間に、めったにない子どものような軽率さにとりつかれる。

同上 p.149

病気が犯罪そのものを生み出すのか、それとも、犯罪そのものが、その特殊な性格上、つねに病的なものにともなわれずにいないのか、という問題は、彼にはまだ解決する力がないように感じられた。

同上 p.150

 また「病気」が出てきた。「犯罪者=病人」という考え方が堅持されているといえるだろう。

 しかし、実はラスコーリニコフ自身は彼の目論見を「犯罪ではない」と感じていた(p.150)。その具体的な理由は書かれていないが、おそらく「犯罪行為であっても犯罪とされないことなんていくらでもあるじゃないか」という風にでも考えていたのではないだろうか。

 ところで、この小説のなかで「罪」という言葉は、ロシア語の語源で「越える」という意味をもっているらしく、それはつまり「一線を越える」という意味をもつ。実はこの「罪」は少なくとも語源的には「良心の呵責」というような意味合いはないのだ。「法を越える」こと、「新しい一歩」を踏み出すこと—―そのような暗示がされているとみるべきだろう(と、江川卓はいっている)。

 だから、このラスコーリニコフの考えは、むしろ「犯罪ではない」と思い込もうとしているように感じる。もっとも、彼が確信犯だったならば、そもそも犯罪だろうがなかろうがそんなことは気にもしなかった。


 なんやかんやあって偶然ラスコーリニコフは斧を手に入れ、ごちゃごちゃと考えをめぐらせながら、しかし確実に老婆の家へと向かっていった。

「刑場へ引かれていく死刑囚も、やはりこんなふうに、途中で目にするすべての事物に頭のなかですがりつくようにするにちがいない」
彼の頭をこんな考えがかすめた。

同上 p.154

 ドストエフスキーお得意の死刑囚考察だ。ただ、殺す側のラスコーリニコフが死刑囚になぞらえられているのは奇妙にもみえる。ぼくが思うに、この殺人をすることで、彼の一部が〈死ぬ〉ということを暗示しているのではないだろうか。

 さて、次はいよいよ老婆殺害のシーンになる。

 

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