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小説の特徴

 クンデラ『小説の技法』に、小説は、ストーリー・哲学・心理学・詩・科学など様々なジャンルを含むことのできる媒体だ、というようなことが書いてあった。

 たしかにその通りだ。逆はできない。これほど多くのジャンルを内に含むことのできる容れ物はほかにあまりない気がする。しかし、たいていの小説はストーリーといくらかの哲学的要素くらいしか入っていないケースが多い。

 これでは小説のポテンシャルを活かしきれていない可能性が高い。これまで数多の小説が書かれてきたが、そのパターンはいまだ出尽くしていないように思われる。たとえば『ツァラトゥストラはこう言った』は、小説でもあり哲学書でもあり詩でもあり……といった感じだが、こういう例はそう多くはないだろう。

 しかしもちろん、こういった「前衛的な」小説が少ないのには理由がある。シンプルに難しいのだ。色々な形式を詰め込めば、どうしてもとっ散らかった感じになってしまう。小説全体の統一が失われてしまう危険性があるのだ。

 しかしそうであっても、この小説の利点には計り知れないポテンシャルがあるとぼくは思う。たとえば、(これはよくあるが)小説に歌の歌詞を入れ込むとか、小説の内部に別の物語を入れるとか、ストーリーを分岐させるとか……。

 いざ自分でアイデアを出そうとするとなかなかでないものだが(笑)、何か新しいすき間は見つかりそうだ。奇抜であれば良いというものではもちろんないが、せっかくなら新しい圧倒的なアイデアの宿った作品が読みたい。

 それだけでなく、実はぼくも小説を書きたいと思っている。まぁまだ思っているだけなのだが。そしてせっかくなら、哲学をうまく利用したものを書きたい。

 哲学は、もちろん論文形式でもいいのだけど、そういうのはたいていつまらないし、なによりそれだけの体系を作り上げるのは凡人には不可能だ。もちろん小説の形式なら適当でいいというわけではないが、こっちの方がまだ可能性がある。

 それに、哲学はもともと対話、あるいは短い文章の断片から始まった。ニーチェは、自身の確立したアフォリズムこそが今後ずっと生き残る文章の形式だろうと予言している。ヘラクレイトスの断片が、プラトンの対話篇がいまだに生き残っている、どころか大きな影響を与えている事実は軽視できるものではないだろう。

 とはいえ、ニーチェは超優秀な文献学者でもあったわけで、まずは硬い土台を作り上げないことにはどうしようもない。ガッチリとした基礎があってこそ独創的な表現が可能になる。ぼくはまだスタートラインにすら立っていない。

 ところで現在、小説(文学)の置かれている立場は芳しくない。動画・ゲーム・SNSなど新しい刺激的なメディアがたくさんあるのだから、これは当然の定めと言えるだろう。しかし、小説にしかない良さもある。すでに他の記事でも書いたが、それは想像可能性と読む側の能動性だ。受動的なメディアでないというのが、小説の強みだ(同時に弱みでもあるが)。

 また、小説には、〈政治〉に対して本質的に抵抗する力があると思う。政治はハッキリとしたメッセージ、記述、単純さを求める。小説は基本的にそれらの反対側にある。曖昧なところがあり、すべてを説明しきることは難しく、複雑だ。政治が明確さを求めるのは、たとえば一昔前のゲバ文字の形をみても明らかだろう。また、スローガンがやたらと掲げられるのもそのあらわれだ。政治はあっちかこっちかという選択を迫る(もちろんグラデーションはあるが)。小説(物語)は、そういった記号的な分類に抵抗する。

 言語は”全て”を記述しつくすことはできない。だからこそ、文章のすき間が大事になるのだと思う。そこらへんのことを気にしていきたい。

 

 

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