見出し画像

『罪と罰』読みどころ④ 妹の結婚

さて、今回はいよいよラスコーリニコフの言葉を中心に見ていこうと思います。ところで、さっきの記事は言い切りの文体で書いたのに、今回はですます調です。文体がはっきりしなくて申し訳ないです。まだスタイルが確立していないもので。しかし、『罪と罰』は味わい深い文章が多すぎて、あの文も良い、この文も良い!と思ってしまいますね。しかしなんでもかんでも引用してたらただ小説を写すだけになってしまうので、ちゃんと自分なりのお気に入りポイントを厳選していきたいところです。

今回のシーンはラスコーリニコフが母のプリヘーリヤからの手紙を読んだ後の場面です。このお母さんも妹のドゥーニャも、ラスコーリニコフのことをとても愛しています。お母さんに関してはどちらかと言えば、ドゥーニャよりもラスコーリニコフの方が大事でしょうね。まぁ母親で昔の田舎の人となればそれも当たり前かもしれません。

この手紙でいろいろな事情が明らかになるのですが、一番大きなことは、妹のドゥーニャが実業家のルージンという人と婚約したということです。ところがこのルージン氏、控えめに言ってもあまり気持ちの良い人物ではありません。母からの手紙には、プリヘーリヤの好意的な解釈を経てはいるものの、「妻は貧乏人から貰って、夫に恩義を感じさせるにかぎる」という趣旨の発言をルージン氏がしたことが記されています。他のはしばしからも、このルージン氏が若いわりにお金持ちではあるものの、それをタテにドゥーニャをモノにしてやろうという、傲慢で自分勝手な考えが透けて見えます。

ラスコーリニコフは、ルージン氏の正体が分かっていながら貧しい一家のために結婚をしようとするドゥーニャと、ルージン氏の傲慢な性格を見ようとしないプリヘーリヤに憤ります。

だいたい、シラーの芝居の人物みたいな、こういう美しい魂の持ち主は、いつだってこうなんだ。いよいよという時まで相手を孔雀の羽で飾りたて、ものごとをよいほうにばかり取って、悪いほうには目をつぶっている。内心では裏目が出ることを予感しているくせに、実際にそうなるまではけっして自分に本当のことを告げようとしない。そんなことを考えるのはごめんだとばかり、飾りたてた当の相手にぺろりと舌を出されるそのときまで、真実を目にすまいと大わらわなんだ。

『罪と罰』

とても実感のこもった文です。
ラスコーリニコフが「美しい魂の持ち主」と表現しているように、母のプリヘーリヤは純朴な、優しい人物です。いわゆる田舎のおばあちゃんとか、お母さんという感じ。人間だれしも多かれ少なかれこういう面はありますが、しかしこういう人物は特に常に楽観的であろうとします。生活をもう少し楽にしたい、特に息子には幸せになってほしい……こう思っているから、プリヘーリヤはこの結婚が自分たちに良いものだと思い込もうと必死です。そういう心理をラスコーリニコフは鋭く見抜きます。

しかし母はそういう性分だから仕方ないとしても、聡明なドゥーニャまでなぜ自分の幸せが見えないこの結婚を推し進めようとしているのでしょうか。答えは簡単で、母と兄(ラスコーリニコフ)のためです。だからラスコーリニコフはドゥーニャのあり方をこう表現します。

ああ、人間というやつは、こういう場合になると、自分の道義心さえ押し殺して、自由も、安らぎも、良心さえも、いっさいがっさい、古着市場へ持ち込むものなんだ。

同上

ラスコーリニコフはここで人間というものをかなり高貴なものとみていますね。利己心というものの歯止めが利かなくなっている(とされている)現代の感覚とは少し違うかもしれません。ともかく、ドゥーニャという人物は、愛する人のためなら自己犠牲もいとわない、抑圧された高貴な人なわけです。


ところで、「古着市場」という言葉で思い出したことがあります。物語の最初らへんの酒場のシーン、マルメラードフのセリフです。

この性根をどうできるというんだ! いいですか、あなた、いいですか? 私はあれの靴下まで飲んじまったんですよ。靴じゃない、靴ならまだしも世間なみでしょうが、靴下を、あれの靴下を飲んじまったんですよ!

同上

マルメラードフはカチェリーナの靴下の分まで飲んでしまったと告白します。生活必需品、その中でも絶対に必要な靴下にまで手を出してしまったと。滑稽な悲しみに満ちていますが、ここで大事なのはマルメラードフが「靴下」の部分をことさらに強調している点です。つまり、衣服や下着というのは、どんなに貧しくても絶対に必要な最後のラインなんだということです。

人間のありさまは、あるいは階級は衣服にあらわれる。
ドストエフスキーは『罪と罰』の中で、あるいはほかの小説でも着ているものの描写をわりと執拗にやっている気がしますが、そこにはこの、社会的な地位がまさに衣服において容赦なく現れるという考えがあるのではないでしょうか。

話をドゥーニャに戻すと、古着市場とは衣服という生活必需品を売る場なわけです。つまり、生に必要な最低限の(と同時に最大のものでもある)誇りをも、売ってしまうことの恐ろしさ。これが「古着市場」という表現によってより際立っているのではないでしょうか。

さて、プリヘーリヤの願いとドゥーニャの自己犠牲を見てきたわけですが、自己犠牲といえばソーニャですよね。次はドゥーニャとソーニャが重ねられるところを見ていきたいと思います。しかしこのペースだと、本当に全然進みませんね……。果たして最後までやり切ることができるのか……。アドバイスや希望等あったらコメントください。

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?