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『絶望の隣は希望です!』著:やなせたかし~挫けそうになったときは、この本を読もう~

やなせ先生や『アンパンマン』と僕の接点は、ありそうでなかったりします。
『アンパンマン』の人気が出た頃には、もう既に学生でしたし、また何の因果か『アンパンマン』を作っているアニメ制作会社に入社したときも、担当であったことはありません。

しかしながら、『アンパンマン』を制作していた隣のスタジオとも仲が良かったので、よくやなせ先生のことを伺ったりもしていました。

やなせ先生に、脚本家と一緒に作り上げたキャラクターのアイデアをお送りすると、あっという間に見事なキャラクター原案がFAXで先生からスタジオに届きます。

当時、もうかなりのご高齢でしたが、そのレスポンスの早さとアグレッシブな創作姿勢から「やっぱり先生は違うよね~」と仲間と話していたりしました。
アニメの制作というと、アニメーターからなかなか原画がUPしてこないことも多いので😁

また年末に開催される会社の忘年会でも、陽気になられているやなせ先生も印象深かったです。
やなせ先生の挨拶は趣向に富んだものが多く、挨拶一つとってもエンタメ性があるというか、いつまでも記憶に残るものでした。

さて、月日は流れ、自分自分も会社を辞めて独立し今に至るわけでですが、たまたま手に取ったこの『絶望の隣は希望です!』を読んで目からウロコがボロボロ落ちまくりました。

以下、特に印象深かった箇所を引用してご紹介したいと思います。

振り返れば、若い頃というよりは、なんと50歳ぐらいまで僕は、失意と絶望の連続でした。ずーっと何十年ものあいだ、「自分は何をやっても中途半端で二流だ」と思い続けていました。漫画家なのに代表作がないことが致命的なコンプレックスとなって、50歳過ぎても、まだスタート地点でうろうろしているような気持ちでした。
「もう、売れることはない。そろそろ引き際だ」──そう思ったとき、アンパンマンがヒットし始めたのです。もう60歳を遥かに過ぎていました。

やなせ先生はずっと焦燥感みたいなのにも駆られていたのでしょう。
ただし「失意と絶望の連続」であっても、「待てば海路の日和あり」の通り、地道に努力していれば、いつか道は開かれるように思います。

まだ、この世に生まれて3年ぐらいという、文字も読めない、言葉も覚束ない子どもたちが、何の先入観もなく、純真無垢の塊で、アンパンマンに拍手を送ってくれた。アンパンマンをヒーローにしてくれた原動力は、小さな小さな批評家たちでした。僕は、偉い評論家や絵本の専門家から一度も褒められたことはありませんが、これだけ子どもたちが喜んでくれたことで、もう十分だと思いました。そして、代表作がないとコンプレックスに苛まれていた僕は、60歳を目前に、ようやくそれを見つけたような気がしたのです。

企画の仕事などをしていると、どうしてもマーケティングをツールとして使って、それでOKとしてしまうことがあります。
幼児向けのコンテンツだと、実際にお金を使うのは幼児自身ではなく、その親や祖父母であったりもします。
「シックスポケット」を狙っていこう!
と安直に考えたりもしますが、いや本当にコンテンツを喜んでくれるのは、幼児たちです。
そこをないがしろにする「大人の考え」では、あっという間に「小さな小さな批評家たち」に見抜かれてしまうことでしょう。
身が引き締まる思いがしました。

満70歳の僕は、急に有名になったことにある種の気恥ずかしさを感じながら、人生の晩年スレスレで、いくらか日の当たる場所に出られたことがうれしかった。しかしその半面でいつも胸につかえてるのは、四十数年、苦労を分かち合ったカミさんのことでした。

やなせ先生を身近で支えてきたのは、奥様でした。
ずっと仲睦まじく一緒に人生を歩まれてきたのだと思いますが、残念ながら先立たれてしまいます。
本当に信頼し尊敬する最も身近なパートナーが、突然ガンにかかり闘病生活に入ります。
日々良くなったり、悪くなったり、やなせ先生と一緒に乗り越えられそうな瞬間もありましたが、とうとう別れの日はやってきます。
本著の中でも優しい語り口で綴られていますが、悲しみがストレートに伝わってきます。

そんな僕は、これまで「十病人」といわれるくらいで、いろんな病気と対峙しながら生き永らえてきました。

一方、やなせ先生も大病を患ったりもされています。
「がんサポート」のサイトでは、鎌田實さんと赤裸々な闘病生活を話されています。

「腎盂にできたがんを取り除いた後、すぐに膀胱がんが発見され、10回の再発を度重なる内視鏡手術、そして放射線、BCGの併用療法で乗り切って、90歳になった今も、元気に創作活動を続けている」とのことで、普通だったら気力も体力尽きてしまうところを、やなせ先生は持ち前の明るさで乗り切っています。
「病は気から」という言葉もありますが、気力だけでは病を治すことは出来ません。
しかしながら、病は病という事実で動かしようがないので、マイナスよりもプラスの考えでいた方が人生楽しく過ごせるに違いありません。

そこで僕が動きを強めていいたいのは、年を取ったからこそ、代わりに手に入るものもたくさんあるということです。僕は、50代半ばまで代表作を生むことができず、「自分はいったい、何のために生まれてきたのだろう」とずいぶん苦労しました。でも、若いときに苦労したり悩んだりしたことが、いまの僕に活力を与えてくれる「宝物」になっているような気がします。

「苦労は買ってでもしろ」という言葉もありますが、実際に苦労しているときは、逃げ出したくもなったりします。
それが普通です。
しかし逃げた先でも、苦労は形を変えて姿を現したりもします。
だったら、割り切ってマインドチェンジして粛々と目の前のことをこなしていけば良いのかもしれません。
「失敗は成功のもと」とも言いますし、年齢を重ねると、苦労が経験となって昇華されているのが分かります。

30代半ばになってこの世界に首を突っ込んだ僕は、いくつもの電車に乗り遅れ、ようやく乗り込んだはいいが、その電車はすし詰め状態。とても座る席などありません。でも僕は電車を降りなかった。
僕は人生というのは満員電車じゃないかと思うのです。我慢して乗っていると、次々と人が降りていって、いつの間にか席が空いて座れる。これは、誰もが一度は経験することでしょう。
僕が売れない、モテない、しがない漫画家として、それでも生き延びてこられたのは満員電車から降りなかったからです。

武田鉄矢さんもおっしゃっていましたが、成功するためにはずっと手を挙げ続けることが大切です。だんだん疲れて手を下ろしてしまう人が多いので、その中で手を挙げ続けていたら、自然とチャンスが掴めるはずです。
やなせ先生の満員電車の例えも同様です。
満員電車に乗っていると、もみくちゃにされて大変なときもあります。
一方、すんなり目の前の席が空くこともあります。
それがいつになるか神のみぞ知るので、何はともあれ続けることが肝要かと。

そうだ、「人生、一寸先は闇」ではなく、「一寸先は光」なのだ。この大先輩の言葉に僕は救われました。
漫画の注文が来なくても、時間はたっぷりあるのだから描き続ければいいのだ。描き続けていれば、いつか日が差し込んでくるのだ。僕は、自分の胸にそう呼びかけて、注文もされないのに描き続けました。ここでクサってはだめなのだと描き続けました。

やはりやなせ先生はポジティブですね。
妻に先立たれても、大病を患っても、何があっても明けない夜はないです。
「一寸先は光」と考えると、人生がパッと明るくなり、人生の道標もきっと見えてくることでしょう!

人生に挫けそうになったときは、この本に書いてあることを思い出そうと思います。

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