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犀の角・第一夜 「ひとり」 : ① 企画のご縁

昔のインド人は言いました


 仏教以前、インドの哲人は言った。

「汝、それなり」

 また、別のインド人は同じことをこう言った。

「自己とは、に非ず、に非ず、としか言えない」

 その後、仏教を開いた釈尊は、人間の存在を見据えて言った。

「独生 独死 独去 独来」

 誰しも「私は生きている」と思っている。当然、私も思っている。私は生きている。あたりまえだ。しかし、あたりまえのことほど不思議なものはない。「あたりまえ」とは、それを正しいことだと仮定してその先を規定するような、数学で言うところの公理のようなもの。公理は証明を要さない。というより、証明することができない。「私は生きている」とは、つまり一体何を言っているのだろう。「私」とは何か。「生きている」とは何か。


はじまり


 発端は2023年4月初旬、下北沢の中華屋でのこと。自主レーベルから出版したCD(好日/ブランコノリ)を、会社員時代の元上司・先輩方に買ってもらいながらお酒を飲み、仏教とジェンダーにまつわる活動について相談しながら酒量は増え、気づけば内容はよく分からないけど全員でcodamaを応援しよう、という合意のみが形成されていた。できない約束はしないのが大人、後日、第1回のオンラインミーティングが本当に開催され、そこから各々多忙な日々の合間を縫って、議論が重ねられていくことになる。


仏教とジェンダーの問題


 釈撤宗さんの私塾「練心庵」で、全8回のオンライン勉強会を開催する機会に恵まれ(詳しくは、マガジン「仏教×ジェンダー あれこれ」をご覧ください)、当初はこの取り組みの続きを書籍にできないか、と考えていた。私は女性だが、私=女性ではない。仏教経典や解釈書には女性を男性より劣った存在とする記述が多々あるが、仏教=性差別的価値観を内包する教え、ではない。人間は例外なく不完全で、人間の数だけ人間がある。社会はそんな人間によって作られる。だからこそ、いろいろ痛いけど面白い。

 しかし、この面白さを享受するには、前提があるように思う。自分に事情があるように、他人にも事情がある。自分に好き嫌いがあるように、他人にも好き嫌いがある。自分が自分の人生を生きているように、他人はその人の人生を生きている。誰しも知っていることである一方、そのように振る舞うことは、往々にして難しい。電車で座席を譲ったのに断られて腹が立ったとか、誰かの抱える家庭や仕事の問題を贅沢な悩みだと感じたとか、奇抜なファッションの人を見て生きづらそうだと思ったとか、誰にでも経験があるのではないだろうか。何がその人のためになるかを決められるのは自分ではない。慎ましかろうが贅沢だろうが悩みは当人だけの課題だ。他人から向けられる目をコントロールするためのオシャレを楽しむ人もいれば、そんなことよりこれが自分であると思えるものを纏う満足と愉悦に生きる人もいる。もちろん、服に興味のない人も。そこに他人が評価を挟む余地などない。ないが、ともすればそれをやってしまうのが私たちだ。しばしば、気づくことすらなく前提を破壊し、あるいは、それを気にとめることもなく人を評価し、分別する。やがてその自分自身への無頓着は、意図せずとも攻撃へ、暴力へと繋がっていく。

 人間が人間の数だけあるように、今日の「ジェンダー」も人間の数だけあると言って過言ではないと思う。しかし、ジェンダーという言葉の定義を辞書でひいてみたことのある人は、一体何人いるだろう。劣った、優れた、という分別は人の手によって作られ、命を不自由にしたまま受け継がれていく。


犀の角・第一夜 「ひとり」



2023年11月16日(木)20時、トークとライブのイベントを開催する。場所は渋谷区道玄坂、アート専門の古書店Flying Books。時間と脳みそのCPUを割いてくれる先輩方とのミーティング紆余曲折の末、codamaのライブとあわせてゲストを招いたトークイベントを開催しよう、ということになったとき、Flying Booksの山路和広さんへと辿り着いた。ゲストは、下北沢で「codamaを応援しよう」と決めてからずっと伴走してくれた(株)着火と消火の田代誠さんと、夫であり当山住職でありcodamaのマネージャーでもある福山智昭さんが勤めてくれるという、心強い布陣。

 私たちは、徹底的に関係のない「ひとり」だ。家族がいようが、パートナーがいようが、ひとり分の命だ。生まれて、理由は分からなくても「ひとり」分の命に嫌でも生かされ、必ず死ぬ。その、私という「ひとり」への眼差しは、ほかに人間の数分の「ひとり」が存在していることに気づくことなしには感じることのできないものではないだろうか。私という「ひとり」を、私以外の誰も生きることはない。みんなそういう「ひとり」だと。そんな風に考えると、それまで厳然と存在していた「ひとり」の境界が、逆に曖昧になってくるのではないか。私の頭の考えや、心に思うこと。それが「私」だと思っていた世界から、もっと根源的に「命」が「私」だと、感じられていくのではないだろうか。

 そう書いてみても、頭でわかるようなことではない。私も、わからない。けれど、わからないから面白い。わからない代わりに、場合によっては身体知的に感じていけることなんじゃないかと期待している。身体の血を流す痛みのように、頭で理解した、なんて曖昧なことより、身体で感じることの方が確かな場合だってある。

 イベントのタイトルである「犀の角」は、かねてから考えていたプロジェクトの名前でもある。釈尊の言葉、

学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 17頁)

から拝借している。この日、この場でお会いする方が、お互いにとっての「友」である時間になれば何よりだ。生きているうちに疑惑を除き去ることができるかは分からないが、およそ答えの出なさそうなことを、徹底的に無関係な「ひとり」である私たちが、みんなで考えてみる。

「ひとり」とは何か。

私自身、考えるよすがになればと思っている。

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