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図書No.002: 『Dusk/Dawn』by Motoyuki Shitamichi

 下道基行さんの作品を初めて見たのがどこの美術館だったか、覚えていない。本の形をした『Dusk/Dawn』をどうしても手に入れたくなったのは、2015年に岡山県立美術館で行われていた「第5回 I氏賞受賞作家展 めぐりあう時間」に足を運んだ時のことだった。岡山大学病院での手術を控え、2ヶ月間の休みを取って東京から帰省した入院直前、姉が持っていたチケットで母と3人連れ立って行ったように思う。その頃はこの写真集が撮影された一方の地である熊本県葦北郡津奈木町について、行ったことはおろか名前さえ知らなかった。

 タイトルの通りに作られた写真集。30枚60ページ。1枚のページの片側にDusk(夕暮れ)の空、捲ってもう片側にはDawn(夜明け)の空。ページを捲ると30秒分、暮れると同時に明けていく。地球上の「ここ」と、反対側の「どこか」の空が、1枚のページのこっちとあっちに現れる。ページの上ではこっち(またはあっち)は津奈木町、あっち(またはこっち)はアメリカ合衆国シカゴ州のどこかとなっている。一冊分捲り終わると30分経過している計算で、津奈木町の薄紫色をした夕べは夜へと姿を変え、シカゴの闇は透明な青の朝を迎えている。

 そんなこの本のページを摘んで、長辺に対して垂直方向から見ると一本の線が現われる。そこには無数のあっちやこっちがあって、明けたり、はたまた暮れたりしている。目には見えない。しかし脳内ではこのページの線の中、地球上の名前も知らないどこかの空が、いろんな色と温度で入れ替わり立ち替わり飛来する。今この文章を書いている私がいるのは12月の19時過ぎ、大牟田市とみやま市と南関町の境で、それは地球規模で見れば津奈木町とほぼ同じあたりで、冷たく澄んだ空にキンキンと無数の星が浮いている。例えばアメリカであれば私の姉が暮らすポートランドは今、夜中の2時過ぎで、この山よりもさらに寒い夜がひしひしと深まり、重たい雲が垂れこめ、もしかすると雨が降っている。そんな空とその下に繰り返される無数の営みが、どんどんどんどん拡がっていく。

 手元で真っ黒なカバーに覆われた私の『Dusk/Dawn』には、版元であるミチラボラトリーからの納品書が挟まっている。発送先として岡山の実家の住所が書いてあるので、私はこの本を地元で受け取ったことを忘れることができない。この紙をなぜ挟んだままにしてあるかというと、下道さん本人の直筆でメッセージが添えてあるからだ。購入のお礼、遅くなったとへのお詫びと、これからもよろしくという趣旨の丁寧な言葉。この簡単な文章を読むと、岡山県立美術館のガラスケースの前で立ち尽くしたのを思い出す。入社以来がむしゃらに仕事に打ち込んできたつもりだったが、思いも寄らず休みをもらうことになった時、思わぬところで足をすくわれたという思いと、降りることができないレースが不意に終わったような安堵があった。そんなぐちゃぐちゃが手術前の不安定さも手伝って、涙になって押し出されていった。私の頭上に降り注ぐ空が、どこまでも私に関係していると同時に同じ重さで無関係に感じられた。その日は、高くて薄くて白っぽい、寒さを吸い上げているような11月の晴れた空だった。

 手術1ヶ月後の診察が終わり、職場への復帰が近づいて東京に戻る頃、今の仕事を生活の中心に据えて生きるのは辞めようと誓った。莫大な量の消費者データを活用したマーケティングに関するあれこれの営業、それが私の仕事で、クライアントは誰でも知っているような大企業ばかりで、一端のビジネスマンを気取っていた。世の中に出会いを仕掛けることには楽しさがあったし、仲間にも恵まれていたと思う。ただ、多忙だった。基本的に昼食は食べないか、PCに向かってながら食べできるようなものを流し込み、終電で仕事を持ち帰ることもざらだった。半年で4〜5キロ体重が落ちているのにも気づかず、下腹部に妙なしこりがあっても病院に行くのを後回しにした。結果、お腹を切って開けるという、シンプルに痛い目にあった。一方、私の不在に関わらず、会社も仕事も世の中も回っていた。ちょうど私の目には映らないどこかの空が、淡々と明け暮れしているのと同じように。

 社会に出ると同時に縁遠くなった音楽活動を、再び始めたのはこの時だった。自分で選んだ1本道を爆走していると思っていたけど、実際は脇目をふらなかったから見えなかっただけの分岐が無数にあった。世界は地続きで、誰だって自由で、私は歌っていたかった。余談だが、納品書には2冊購入したという事実も残っている。一冊は、誰かにあげようと思って手に入れた。その後しばらく経って、今もお世話になっている当時の上司に送ったと記憶している。見えている空の下から見えない空を想像する行為は、人を思いやることに限りなく似ている。そして、歌を作ることにも。

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