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法話|冬至の夜の演奏会

 「なんもない夜座」というご法座を、しばしば行っている。

ご法座は、なんもない日にやったっていい。特別な人たちがやってきて、特等の音を鳴らす夜は、特に。

 今回はこちら。

 ご法座なので、お勤めもすれば、ご法話もある。ご法話のご縁があればまず原稿を書く。冬至と音楽をご縁に、こんな内容になった。


法話


<御讃題>
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ


 今日は、冬至です。一年のうちで最も夜が長い。
浄土真宗の御開山、親鸞聖人は、煩悩に覆われた私自身の姿を「無明長夜」と喩えられました。どこまでも終わりなく続く、明かりのない真っ暗な夜。

 こうしている間にも地球はまわるので、必要な時間が過ぎれば陽はまたのぼり、朝が来ます。一朝一夕、なんて言葉がありますが、文字通り1日かけても解決できない、理屈ではどうにもならないような問題が、我が身に降りかかることがあります。しかしそうしたことも日々の経過とともに薄れてゆき、時間が解決してくれることもあるでしょう。

 私たちは誰しも、自分の人生を生きています。というより、自分の人生しか、生きることができません。自分の考えていることしか分からないし、自分の体しか動かすことができません。と同時に、唯一、「認識する」ことができない人が、自分にとっての自分自身です。原理的に言って、認識の主体である自分が、認識の客体である自分を認識することはできません。そんなことはないと思いますか?私は私を認識できている、と思いますか?では、その、「私が認識した私」つまり客体としての自分に、「私を認識している私」つまり主体としての自分を含めることはできますか?私たちの「認識」という行為の限界が、ここにあります。自分のことしか分からない。けれど、自分を分かることはできない。なぜ生まれたのかも、いつ死ぬのかも、死んだらどうなるのかも分からない。まさに「無明長夜」、どこまでも終わりなく続く、明かりのない真っ暗な夜です。

 しかし、親鸞聖人は続けます。暗闇を見つめる私たちの目には何も見えないけれど、それを悲しむことはない。なぜなら、終わりもなく始まりもなく、生まれ変わり死に変わり、どこからきてどこへいくのかもわからない恐ろしい海のようなこの世界を照らし、命を遂げたその時に、南無阿弥陀仏のお浄土へと渡してくださる如来さまがご一緒です。この私の真っ暗な世界を、安心して生かしてくださる如来さまがご一緒です。だから、この私の、情あるこの身の、自分のことしか分からないのに、自分のことが分からないこの私の、言葉にならないほど不確かなこと、正しくないことを、嘆く必要はない。そんなどうにもならない、自分で自分を確かめることもできない、拯うこともできない私だからこそ、如来さまがその船となり、舵をとり、お浄土へと渡してくださるのだと。

 南無阿弥陀仏の仏さま、阿弥陀如来さまは、しばしば「声の仏さま」だと言われます。いつでもどこでもこの私におはたらきくださいます。その証拠に「南無阿弥陀仏」いつでもこの口から出てくださる。この私を呼んでくださる。「南無阿弥陀仏」と、自分でお称えしているようで、そうではない。如来さまの方がこの私を、いつでもどこでも願ってくださる、「まかせよ、となえよ」とおはたらきくださる。それがこの「南無阿弥陀仏」のお姿です。

 声、というのは、音ですね。今夜はこれから、二組の音楽家による演奏会が待っています。さて、音。音というものは、私たちの世界では、物理現象として起こり、それは「音波」と呼ばれ、「波形」として表されます。低い音は緩やかな波、高い音は細かい波。音波は空気だけでなく、あらゆるものを媒介して伝わっていきます。そうして考えてみると、私たちの生きるこの世界は、音の波に溢れた場所、つまり音の海のような気がしてこないでしょうか。

 親鸞聖人は、90年のご生涯の中で500首以上のご和讃を遺されました。その中に「海」の喩えをたくさん用いられています。私たちの生きるこの世界は、生死の苦海、また、阿弥陀如来のお浄土は、大心海、功徳の宝海、一乗海、などとお示しです。私たちの生きるこの世界も、拯いとってくださるお浄土も、どちらも限りのない海だと。

 今夜、私たちの耳に届く音は、この長い夜の音の海にいっときあらわれる波です。それは、この苦しみの海にいっときあらわれる波のような命を生きる、私たちの姿に似ています。始まりもなく終わりもない無数の世界の音の中で、今夜ここにあらわれる音楽の波に浸かることができるのは、私たちだけです。

南無阿弥陀仏


精進します……! 合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。