なぜ、お釈迦さまは霊魂を否定したのか?
諸法無我とは、仏教における絶対的真理の一つです。具体的には、全ての法則や現存在は本質的には自己独立的な実体を持っておらず、それらは通常時、時間や条件などの相関関係の中で生み出され、存在しているという考え方です。 これは、一般的に、自己中心的な見方から解放されることを目指す仏教徒にとって、非常に重要な教えの一つです。つまり、我々は現象や存在を自己独立的な実体として認識し、その感覚や執着に囚われることがありますが、この教えを理解することで、それらに煩悩が生じないようにすることができるのです。
具体的な例を挙げると、私たちは日常生活で「私は自分自身が存在する」という考えを抱いています。しかし、諸法無我の教えでは、自己独立的な存在はなく、私たちは時間や環境などの要因によって生まれ、変化し、消えていくものであるという考え方があります。 また、他の人や物事を見て、「これは存在する」「あれは存在しない」と判断したり、自己独立的な存在を与えたりすることもありますが、諸法無我の教えでは、全てのものは時間や条件によって常に流動的であり、絶対的な実体を持たないということを示唆しています。 つまり、諸法無我とは、あらゆるものが生まれ、変化し、消えていく無常の流れの中に存在しているという考え方であり、この考え方を理解することで、我々が持つ執着や苦しみを軽減することができると考えられています。
お釈迦さまは、諸法無我の教えによって、魂や霊といった実体を持たなとされる存在のあり方を指摘しました。つまり、人間が魂を持っていると考えるのは、実は不完全な認識であり、真実の理解とは無縁だということです。 しかし、一部の仏教学派では、魂や霊の存在を認め、その存在が示唆されていると解釈することもあります。また、輪廻転生の考え方においては、前世後世を繰り返す魂の存在を仮定することもあります。 ただし、一般的に、お釈迦さま自身は「自己独立的な実体を持つものは存在しない」と説き、魂や霊の実在性を否されたと考えられています。この教えは、人々にとって、執着や執念を捨てることを促すことで、平和で慈悲深い心を育むことを目的としています。
諸法無我の教えは、自己独立的な実体を持つものが存在しないとするものであり、宗教的な信念や主張に対しても否定的な影響を与えることがあります。この理由としては、以下のような点が挙げられます。 まず、諸法無我の教えは、一切の存在が流動的であることを説くため、宗教的な信念や主張を含め、あらゆるものが常に変化していくことが示唆されています。つまり、宗教的な信念や主張が真実であることを前提としていることに疑問を投げかけることができます。 また、諸法無我の教えは、宗教的な信念や主張が固有の実在性を持っているという考え方を否定するため、宗教的な信念や主張に対して、懐疑的な態度を持つことが自然となります。 ただし、諸法無我の教えの本義には、すべての存在が相互に関連し合って成り立つ、という考え方が含まれています。そのため、宗教的な信念や主張も、ある程度は人々の心や行動に影響を与える重要な要素であるとも考えられます。
花園大学の佐々木名誉教授は
西洋の考えで精神と物質みたいに分けてしまいます。もちろん日本の仏教は大乗仏教なので、精神と物資を分けてしまいますので、魂や霊といった考え方になります。
位牌やお墓に魂や霊魂みたいな思想を勝手に取り入れたのが日本の仏教です。
お釈迦さまの仏教は、諸法無我なので、全ての宇宙全体を探しても、我という実態が存在しないといっているので、もちろん霊魂と言う物もない、だとすると精神と物質を2分割する意味がなくなってしまうという画期的に思考です。では私というものはどんな構造、仕組みでできているのか?
それは、
外界と内界という他人と私、社会と私、などの色々な要素が繋がりネットワークを形成して、一つの複雑系のようなを作り(脳科学者フリーマン理論)、それが驚くことに、実際にそれが機能して働いている状態を私という。あたかも量子論の雲のような曖昧な状態が私なのです。外と自分はどのように繋がるのかというと、自分の認識するセンサーから入る情報を元に体の中に神経でんたつ組織を作り出し、老廃物は排出して、新たにネットワークを作り出し進化して移り変わる。
だから他人があなたはいい人ですねとか、最近変わったとかいってくれることで、他人の評価が自分の認識に組み込まれていき、自分とはこのような人間だったのかと気付かされて向上する。他人の評価も私ということになる。
そうすると霊魂と物質というように区別することはできなくなってしまう。
そのような世界観をお釈迦さまは説いているのです。
現代の脳神経科学や量子論などの最新科学からも生命体の情報ネットワーク理論や宇宙論からもケイオスから秩序が生成される帯域的アトラクターが脳の心を生み出す仕組みであり、この無我(執着の存在の否定)の境地に立つことが認知機能の向上に役立っています。 もし霊魂を本当に信じているなら、諸法無我という悟りの境地に立つことは一生なく、霊魂を信じているものに本当の幸せなど訪れるはずがない。
諸行無常、諸法無我を深く認識して実践したときに、もっとお金が欲しい、有名になりたい、自慢したい、モテたい、時間がない、なんて不幸なのかなど心が揺さぶられ、限られた時間を失ってしまうようなことはなくなり、諸行無常であり諸法無我なのだから、捉え方や価値観の固定化を自分自身で決めつけているようなことはなくなります。もしこれらのことを学習せずに自分の可能性を自ら閉ざしているなら、
自分自身で首を絞めていることになる。量子コンピューターが実現している現代、世界は開かれたのでありますから、しっかりと現実を観測する能力を身につける。
オームや統一教会などの霊魂やスピリチュアルを謳う偽宗教が信者を増やすことは、情報弱者を騙し、高額なお布施をむしり取り、不幸な人々を生み出す組織になっていることからも、論理的科学のお釈迦さまの仏教ではないことがこれでわかると思います。
おそらくお釈迦様の仏教は宗教という教団を作り、信者数を増やすことを目的にしないないと考えらる(QC理論から)当時の貧困や差別で苦しんでいる一部の人のための格安カウンセラーみたいな存在で、街の片隅で倒産しないぐらいで、細々と永遠に存在できる、永続を考えた心療内科なのかもしれない。
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