きっと私にとっての天才は、"言葉にならない"人なんだと思う
才能ってなんだろう、天才って何だろう、才って何なのだろうとふと考える時がある。
Wikipediaによると才とは『生まれつき備わっている能力。性能。はたらき。』なのだそうだ。
この何だろうというのは、決して否定的なものではない。
前に美容院に行った際、雑誌に載っていたある俳優をみて『この人のどこがいいんだろう』と呟くと『もっと人のいいところを探した方がいいよ』と何故だか否定的に捉えられてしまったので一応訂正。皆はこの人のどこを見て魅力的だと感じているのだろう、つまり人はどこから魅力を感じているのだろう、ということだと説明しても中々伝わらなかったので諦めた。(あるある。)
『顔だよ』と返されたときにはなんだか愕然としてしまった。もっと滲み出るものの話なんだけどなあと心の中で思いながら。自分の言葉足らずを反省しながらなるほどねーなんて言って誤魔化した。=諦めた。
才はどうだろうか。
『この人すごい天才だよね。』に少し違和感がある。きっと私は捻くれているから思うのかもしれないけど、なんだか簡単に"天才"と名付けられ彩られたものを撫でられて終了、みたいな感じがとても虚しいのだ。単にわかりやすく、"天才"と説明することで、"自分とは違う何か"を表しやすいから使うだけなのかもしれないけど、あまりにもパワーワードを使いたがるだけのように見える世の中はやっぱりなんだか怖いなと思う自分がいるのも事実である。もちろんそんな言葉を使うな!という稚拙な話ではなくて、本質的ではない、そんな表現が一番しっくりくるように思う。(とてつもない速さで動いている人の動きを止めるには刺さる言葉、つまり誰もが一瞬でイメージのできる言葉や刺激が求められているんだろうなあ。) 天才ってなんだろう。人がそう呼べば誰しもが天才になれるよね、なんてシニカルな笑いが聞こえてしまう私は確かに、人の"いいところ"に目を向けていればそれでいいのかもしれない。でもやっぱり浅はかな言葉(その人はその人なりの思いがあるかもしれないけど)は使いたくない、それしか言葉に出来ないのなら私は黙ったまま"天才"を噛み締めていたい。見つめていたい。その人の根底に何があるのか深く潜ってみたい。ドアがあるなら少し勇気を出して叩いてみたい。きっと私にとっての天才は、"言葉にならない"人なんだと思う。
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