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『アリスのための即興曲』Vol.26 兎穴からの祈り

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて


前回のストーリーは、こちら。

Vol.25 中山伊織と宇宙人



本編 Vol.26 兎穴からの祈り


 帰宅すると、祖母が玄関口に立っていた。カルチャーセンターから帰ったところなのだろう。滅紫色けしむらさきいろの外套を着て、襟元からはくすんだ小豆色の着物が覗いていた。僕は祖母の着物姿を見るのが好きだった。薄化粧をし、髪をひっつめに結い、背筋をしゃんと伸ばして立つ祖母はどこか椿の花に似ていた。祖母は僕を見て微笑んだ。
「おかえり。今日はずいぶん冷えるね」
心なしか彼女の微笑は、いつもの1.5倍ほどあでやかに見えた。
「時子さんも、今帰り?何かいいことあった?」と僕は尋ねた。
「いや、別にいいことってほどじゃないけれど。今しがた、道を尋ねたひとがいてね。ずいぶん美丈夫だったよ」彼女は外套を脱ぎながら言った。
「そう?」僕はなぜだか嫌な予感がした。心臓がごとりと動く音が聞こえたような気がした。
「どんな感じのひとだった?」僕はなるべく不自然にならないよう、声のトーンを調整しながら言った。
「そうだねぇ、年のころは30の半ばってところだね。背がすらりと高くて、怖いくらいに線が細くて。仕立てのいい焦げ茶色の外套を羽織って、色眼鏡をかけてさ。郵便受けの辺りにスッと立っていらしてね。その方は『ちょっと道に迷ってしまったんですが、駅までの行き方を教えていただけないでしょうか』と仰って、色眼鏡を外した。そこに現れた目ときたら、まあどうだろう!流線形の美しい目でね、ものすごい色気だった。あたしは年甲斐もなく胸が高鳴って、『寒いですからどうぞ中へお入りください』とまで言いそうになった。お急ぎの様子だったので、駅への道を教えたら、その方はすぐに行ってしまわれたけどね。ああ、それにしても色眼鏡なんて気障きざったらしくて好きになれなかったんだけど、あのひとのは文句なしに似合っていた。もしかしたらお忍びでいらした映画俳優かもしれないねえ」
祖母はうきうきした様子で言った。「お忍びでいらした映画俳優」がなぜこんな下町の住宅街を選ぶのか、彼女は疑問に思わないようだった。
「あ、そうそう、あんた宛に何か届いていたよ」
祖母に言われて、食卓の上に封筒が置いてあることに気が付いた。それはA4サイズの真っ白な封筒で、表には住所と名前がワープロ書きで記されていた。ひっくり返してみたが、裏面には何もない。僕はへんな虫でも飲み込んだみたいに胃のあたりが痙攣するのを感じながら、封筒を手に階段を上っていった。


その晩祖母が寝たのを確認してから、僕は封筒を開けてみた。中には一枚の紙とUSBメモリが入っていた。紙にはワープロ書きで、以下のように記されていた。

1  40  13  22  17   6   18   8   21   10   25   4   2   15   3   45   5   31   4   25   16   2   6   8   22   5   8   41
M

英数字が白い紙の上に整然と並んでいた。それは森の奥に住む墓守みたいに、何か暗いものを内包しているように思われた。なんだか気味が悪かった。僕は悪魔が作曲した楽譜に目を通すみたいに、それらの数字を睨んだ。おそらく何かの暗号であることは想像できたが、その意味するところはさっぱりわからなかった。電話番号にしては長すぎるし、誰かの生年月日でもなさそうだ。あるいは時間を指しているのだろうか。そして最後の「M」は ― 考えたくないが、やはり森田ではないだろうか。

 僕は椅子の背もたれに寄りかかり、そっとため息をついた。いくら考えても埒が明かなかったので、先にUSBメモリの方に取り掛かることにした。ノートパソコンを立ち上げセットすると、「無題」という名のファイルが現れた。情報はそれだけで、他には何もなかった。ファイルをクリックすると、ある映像の再生が始まった。砂嵐のような雑音の後、画面いっぱいに白い壁が映し出された。それを見ていると、幻の砂漠に迷い込んだみたいに奇妙な気分になった。

 しばらくすると、画面の向こうに紺色のスーツを着たアリスが現れた。それはあの日僕が撮影した、アリスの証言ビデオだった。彼女は画面をまっすぐに見つめ、日本式に深々とお辞儀をした。そして顔を上げると、画面越しに僕をじっと見つめた。深紅の唇をきつく結び、目は射るようなひかりを放っている。僕は思わず息を飲んだ。彼女は口を開き、ゆっくりと語り始めた。

「20××年12月8日」そこで一息吸って、彼女はこう言った。
坂本さんはわたしに乱暴をしました。オットがそばにいてくれなかったら、今のわたしはどうなっていたかわかりません」

 ― 坂本さん?

目の前が暗くなった。耳鳴りがして、5秒ほどの間僕は何も考えられなくなった。それから聞き間違いかもしれないと思って、もう一度初めから再生してみた。ビデオの中のアリスは、やはり先ほどと同じことを語った。
 頭を殴られたようにひどい頭痛がした。冷汗が脇の下から吹き出てきて、吐き気がした。空気が沸騰しているみたいにぐらぐらし、部屋の景色がゆがんで見えた。アリスが、あのアリスが、僕に乱暴されたと言っている。森田ではなく、この僕に。心臓がぬるりと口から出てきそうで、息をするのも苦しかった。それなのに僕は吸い寄せられるように再生ボタンを押し、続きを観た。

 ビデオの中でアリスはこう語った。12月8日の晩、酔っぱらって家に入ってきた坂本という男性に性的暴行を受けた。坂本は顔見知りの男性だったので、つい気を許して家に入れてしまったのだ。手首をつかまれ、脇腹を殴打された。そして坂本は無理やり性行為に及んだ。数時間にも渡って拷問のような時間が続いた。アリスは行為の途中で気を失ってしまった。気が付いたら坂本はいなくなっていた。シャワーを浴びると、腹部に打撲痕が残っていることに気が付いた。オットは出張中だったが、電話をすると急いで駆けつけてくれた。そしてオットに励まされ、勇気を出してこの証言をビデオに収めることに決めたのだと。

 ビデオの最後は、次のような言葉で締めくくられていた。
「残念ながらわたしの心につけられた傷は、お見せすることが出来ません。けれどそれは、躰の傷と同じくらい深いのです。顔見知りだからといって、の躰をほしいままにし、暴力をふるうことが許されるでしょうか。このビデオを見た方にご判断をお任せします」
そして彼女はスーツの上着のボタンを外し、傷痕をカメラに晒した。僕が撮影したのとまったく同じ場所に、赤黒い痣がはっきりと残っていた。

猛烈な吐き気がこみあげてきた。僕はトイレに行き、吐いた。喉の奥に苦い味がした。しまいには胃液しか出なくなったが、僕は吐き続けた。吐きながら、僕の頭には彼女の最後のセリフがエンドレスリピートされていた。「わたしたち、来世で逢いましょう」と。




 僕はあの日のことを隅から隅まで覚えている。窓辺で揺れるカーテンの影、射し込んできた陽射しの匂い、アリスのやわらかな声、涙の味のする唇。そこに虚構が入り込む余地はなかった。もしそのすべてが嘘だというなら、僕はもう何も信じることができない。僕は洗面所に立って口をゆすいだ。そうしながらも何か熱いものがとめどなく流れてきて、拭っても拭っても消えなかった。

 それとも、と僕は思った。僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか。僕は夢想の中に生きているのかもしれない。もしかしたら彼女に出逢ってフランス語レッスンを受講したことも、森田と一緒に夕飯を食べたことも、それどころか彼女を抱いたことさえ、すべて僕が創り上げた虚構の出来事だったのかもしれない。本来の僕は刑務所にいて、裁きを受けるべき立場にいるのかもしれない。そしてアリスは僕を深く憎んでいるのかもしれない。

 僕はひどく混乱していた。眩暈がして、洗面所の床に座り込んだ。床は氷のように冷たかった。先ほど祖母が浸かった湯の匂いが、浴室にまだ残っていた。その温かな余韻が洗面所の方にまで漂ってきたが、やがて遠ざかっていった。目の前が暗くなり、僕は床の上に身を投げ出した。

 もし神というものがいて、人間たちの生活を一部始終見守っているのなら、どうかほんとうのことを教えてくださいと遠のく意識の中で僕は祈った。けれど兎穴からの祈りは神のもとには届いていないようだった。



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