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『アリスのための即興曲』Vol.28 真実はいくつもある


習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


 

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて


前回のストーリーは、こちら。

Vol 27 時子の卵焼き


本編 Vol.28 真実はいくつもある

    祖母の料理を食べていると、躰中に静かにエネルギーが満ちてくるような気がした。昨夜の暗澹たる気持ちはずいぶんと薄れていた。そろそろ行動を開始するときだと僕は思った。




 僕は思い切ってアリスに電話してみたが、「現在使われておりません」という冷たい機械音声が返事をした。メールも届かなかった。それは半ば予想していたことではあったが。彼女は僕の知らないうちに違う星に引っ越してしまったみたいだった。

 僕は自分の部屋に戻って机の前に座り、引き出しからUSBメモリと例の手紙を取り出した。手元にノートとペンを用意し、ノートパソコンを立ち上げた。気は進まなかったが、USBメモリをセットしてビデオを再生した。ビデオを眺めていると、喉元に苦いものがせりあがってきて、吐きそうになった。冷静にならなければ。感情を排して論理的に考えなければならない。組んだ指がぶるぶると震えていた。

 僕は大きく息を吸い、心の中であいうえお50音を唱えた。あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ…。これは小さな頃からの習慣のようなものだった。なんだか馬鹿みたいだけれど、激しい動揺を感じたときにこれをすると、心が不思議と静まるのだった。最後に僕は深く息を吐いた。そして首をぐるりと回し、思いつく限りの考えをノートに書き出してみた。


1 アリスを暴行したのは森田である。アリスは離婚するつもりでいたが、愛情が森田に戻り、僕に罪をかぶせることに決めた。そこで僕が撮影したビデオの代わりに新しいものを用意した。封筒を匿名で送ってきたのはアリスである。


2  森田夫妻は詐欺師である。僕がアリスと不倫関係になるようにそれとなく誘導し、決定的証拠を抑えて示談金をゆすりとるつもりだった。
 暴行事件はでたらめで、僕をおびき出すための罠だった(アリスの腹部の 傷は何らかの方法で偽装したものである)。この場合、封筒を送ってきたのは森田夫妻である。


3  森田でも僕でもない、第三者がアリスに暴行を加えた。なんらかの理由でアリスはその人物をかばっているか、脅されたかして、僕の不利になるような証言ビデオを撮影した。封筒を送ってきたのはその人物である。


4  アリスに暴行を働いたのは僕である。僕には何らかの記憶障害があり、その件を覚えていない。アリスの証言ビデオの件も、僕の脳が都合のいいように記憶を改竄かいざんしていただけだった。そしてアリスから話を聞いた森田が激怒し、封筒を僕に送り付けた。


とりあえず考えつくのはこの4つの可能性だった。
1の可能性について考えると、とても悲しくなった。息を吸うと鳩尾みぞおちが痛くなるくらいに。けれどあのビデオを見たとき、最初に頭に浮かんだのはこのことだった。

―ねえ、私はオットを愛しているのよ。

アリスの声が耳元で聞こえたような気がした。それから森田の言った「ふたりのアリス」という言葉も脳裏をかすめた。彼女はオットを愛しているが、フランスでオットと一緒にいると息が詰まる。本を読まないオットを彼女は軽蔑し、かつ、オットとの間に子どもを欲しがっている。愛している、愛していない。そのふたつの狭間で彼女は揺れている。けれど最終的に彼女はオットを愛することに決めた。彼女が浮気相手の僕よりも伴侶である森田を庇うのは、むしろ当然だと思われた。

 しかし、と僕は考えた。もしそうだとすると、そんなややこしい手段を取らなくてもビデオを削除すればいいだけのことではないだろうか。あの日、撮影が終わるとすぐに僕の携帯電話からアリスの携帯電話にデータを転送したのだから、彼女の手元にビデオがあるはずだ。でも、僕の携帯にもオリジナルのビデオが残っているのだと思い直した。それをも消去しないと完全な証拠隠滅にはならない。もしかすると、彼女は取引をしたかったのだろうか。新しいバージョンのビデオを僕に送りつけ、それを公開されたくなければ元のビデオを削除しろと言いたかったのかもしれない。


 2の可能性は限りなく低いような気がした。森田家は財政的に潤っているようだし、僕のような貧乏学生をターゲットにする必要がない。それに手法がまどろっこしすぎる。それとも目的が金ではなく、彼らが僕になんらかの恨みを持っていて心理的制裁を加えたいのだとしたら、一応の筋は通る。しかしそうなると、アリスに出逢う前から彼らは僕を知っていたということになる。そうだとすると、いつ、どのようにして?少なくとも僕にはそのような心当たりはなかった。

 3の線は、十分可能性がある。森田家には仕事関係の人間が頻繁に出入りしているとアリスから聞いたことがあった。そのうちの誰かかもしれない。まったく関係ない人物だとは考えにくかった。防犯カメラが設置されていたことや、森田家の構造を考えると(家に入るまでに長い坂を上らなければならず、おまけに家は高い塀で囲まれている)その辺の輩が思いついてひょいと入れるような場所ではない。おそらく顔見知りの人物だろう。森田の仕事関係の人間だとしたら、彼に直接訊く必要がある。

 4の可能性については考えたくはなかったが、論理的に考えるとありえないことではない。そうすると僕の見た夢 ―ルーブル美術館のヴィーナス像を犯す夢― も筋が通るような気がする。深層意識の奥深くに隠された真実が、夢を通じて浮かび上がってきたのかもしれない。しかしその考えは僕をとても暗い気持ちにさせた。一体どこまでが妄想でどこからが真実なのか、その境界線は僕が思う以上に曖昧なのかもしれない。しかし、と僕は考え直した。仮にそうだとしたらなぜ森田は匿名でビデオを送る必要があったのか。堂々と僕を呼び出すか、訴えるかすればいい。



 そこまで考えると、完全に行き詰ってしまった。僕はペンを投げ出して、椅子の背もたれに躰を預けた。
それらの仮説はいずれも真実のように見えたし、そうじゃないようにも見えた。階下に降りて台所に行き、珈琲を作った。珈琲を沸かすこぽこぽという音を聞きながら、僕は例の「あいうえお」を胸の中で繰り返していた。部屋に戻り椅子に座ると、机の上に置いておいた例の紙が目についた。僕はふと思い立ち、別のメモ用紙にあいうえお五十音をすべて書き出し、その下に番号を振った。

あ い う え お か き く け こ  
1       2     3     4      5      6     7     8    9    10 


というように。
そのように得られた番号と例の数字を照合すると、以下のような文が現れた。

あ り  す  に  ち  か  つ  く  な 
こ  の  え  い  そ  う  を  お  ま  え  の  た  い  か  く  に  お  く  る
M


― アリスに近づくな。この映像をお前の大学に送る。M

その文字を見た瞬間、頭を殴られたような気がした。それから僕の頭の中で、何かが音を立てて組み立てられていった。もはや疑う余地はなかった。僕はしばらくその紙を見つめていた。そして背もたれから身を起こすと、ひどくのろのろとした手つきで携帯電話に登録されている森田の番号に電話をかけた。


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