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『アリスのための即興曲』Vol.34 ブラジルの蝶とテキサスの嵐についての考察

年末も押し迫ってまいりましたね。
『アリスのための即興曲』というものを書いております。
お時間ありましたら、ぜひお立ち寄りくださいませ。(^^)


初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.32 さやえんどうの色

本編 Vol.34 ブラジルの蝶とテキサスの嵐についての考察


 幸いにして、祖母の術後の経過は良好だった。少しずつだが病院の食事も喉を通るようになっていったし、体調がいい時には冗談を言って笑うことさえあった。彼女の躰を取り巻いていたさまざまな管は徐々に外されていき、祖母はいつもの祖母に戻りつつあった。医者の話では、一週間もすれば退院できるだろうということだった。それに保険会社から僅かながら入院費が下りたので、そこに僕の貯金を足せばどうにかなりそうだった。



 けれど祖母が肺癌を患ったことは、少なからぬダメージを僕に与えた。それは一種の警告のようにも思われた。もちろん、アリスの件と祖母の病気が同時期に起こったのは単なる偶然にしか過ぎない。それは僕にもわかっていた。けれど純然たる偶然なんて、本当にありえるのだろうか。ブラジルにいる一匹の蝶の羽ばたきがテキサスに嵐をもたらすように、すべての事柄は複雑に絡み合い、微妙に影響し合っている。僕はたぶん、どこかで何かを間違えたのだ。目の前に用意されていた細い線の上を辿ってしかるべき場所に辿り着かなければいけなかったのに、うっかり寄り道してしまった。そこで僕は見てはいけないものを見、触れてはいけないひとに触れてしまった。僕はあの家を取り巻いていた強力な結界のような場を、何らかのかたちで踏みにじってしまったに違いない。兎穴は僕を飲み込んだだけでは飽き足らず、祖母をも引き入れようとしている。僕にはそんな風に思えてならなかった。



 森田からはあれ以来連絡がなかった。ということは、アリスは行方不明のままなのだろう。もしかしたらフランスに帰国してしまったのかもしれない。最後にアリスと会った日、彼女はこれから先のことは何もわからないと言った。とすると彼女は彼女自身の意志で姿を消したのだろうか。森田の話ではアリスの両親は何も知らないということだったが、友だちの家に泊まっている可能性だってある。反対に、まだ日本に残っているとも考えられる。だとしたら、どこにいるんだろう。外国人である彼女が何日も姿を隠していられる場所なんて、ごく限られている。あるいは ―最後の可能性については考えたくもなかったが ― 暴行犯に連れ去られてどこかに監禁されているのだろうか。そう思うと僕はいてもたってもいられなくなった。腸の中に奇妙な虫でも棲んでいるみたいに、なんとも言えない嫌な感覚が腹の底からこみあげてきた。僕は携帯電話を取り出し、アリスの番号に電話をかけた。おそらく今日までに1000回くらいはコールしているだろう。それでもやはり彼女は出なかった。



 僕はため息をついて窓の外を見た。そこから見える空は薄紫色の雲で覆われていた。雲はいくつもの層から成り立っていて、まるで綿菓子を敷き詰めて作られた絨毯じゅうたんみたいに見えた。そしてその絨毯じゅうたんの隅に穴が開いているみたいに、雲の裂け目から細いひかりが降り注いでいた。それはこの地上とどこか別の世界を繋ぐ架け橋みたいに見えた。アリスはもしかすると、あの橋を渡って元いた場所に帰ってしまったのではないか。ふとそんな考えが頭をよぎった。馬鹿げた空想にしか過ぎないとわかっていた。けれど僕はなんらかの心理的支柱のようなものを求めていた。何でもいい、何かにすがりついていないと躰がばらばらになってしまいそうだった。今にも糸の切れそうなビーズのブレスレットみたいに。気が付くと年はゆっくり暮れようとしていた。
 



 ある日の午後のことだった。僕は祖母の見舞いから帰ってきたばかりで、少しぼうっとしていた。珈琲でも沸かそうかと思っているところで電話が鳴った。電話の音は鋭角的な響きを含んでいた。冬の午後の色のない空気を激しく振動させながら、それは何度も鳴り響いた。自宅の電話番号を知っている人間など、そういるものではない。無視してしまおうかとも思ったが、病院からの緊急連絡かもしれないと思い直し、僕は受話器を取った。
「もしもし」
「もしもし。こちら***大学学生課でございます。坂本理生りおさんのご自宅でお間違えないでしょうか」
電話口の女性は僕の通っている大学の名を告げた。まだ若そうな女性の声で、刃物でも研いでいるんじゃないかと思うくらい鋭い声だった。
「冬休み期間中ではありますが、学長が坂本さんにお会いしたいと申しておりまして」
彼女は有無を言わせぬ口調で言った。なんだか世界中の女性を代表して僕に苦情を申し立てているみたいな声だ。それにしてもなんだって学長から呼び出しなんて食らうのだろう。僕は考えるのも面倒になってきて、のろのろと答えた。
「わかりました。いつごろ伺えばいいでしょうか」
「出来れば早急に。今日の午後、お時間ありますでしょうか」
僕は壁にかかっている時計に目をやった。時刻は午後2時半だった。これから急いで支度をして向かえば、3時過ぎには大学に着くだろう。
「大丈夫です。3時過ぎか、もしかすると3時半ころになるかもしれませんが」
「結構です。では、学長にそのようにお伝えしておきます。正門は開いておりませんので、裏門からお越しください。裏門がどこにあるかご存知ですか」
「はい、わかると思います」
「そうですか。では」
そこで電話が切れた。太い糸をぶつんと切ったような沈黙が受話器の向こうに流れた。通話終了を告げる電子音でさえ、心なしかいくぶん尖り気味に聞こえた。一体なんだっていうんだろう。僕は仕方なく出かける支度をして、家を出た。



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