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夢のつづき

  眠りのかけらを蓑虫のように纏っている冬の朝。ぐずぐずと起きだしてカフェオレを飲む。窓の外を見ると、庭の草が霜で白くなっているのが見える。街を歩けば、吐く息が白い。外気温はマイナス三度である。東京のあたたかい冬に慣れていた私は、フランスの気温に未だに順応できていないようだ。

ナンシーに旅行に行った時、立ち寄ったカフェにて。


 「寒いね、すっかり冬だね」と言うとフランス人は変な顔をする。彼らに言わせると、十二月二十一日の冬至が来ない限り、暦の上ではまだ秋なのだそうだ(ちなみにこれを書いているのは十二月十七日である)。
「いや、それはそうなんだけど、日本では十二月はすでに冬なんだよ」と説明しても、ふーんという顔をされてしまう。立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒ときめ細やかな季節の色分けをしている日本の暦に比べると、フランス式はもっと大雑把だ。「春、夏、秋、冬、それ以外に何がある?」と言いたげである。


 世間はワールドカップの話題で盛り上がっている。日本チームもスペインやドイツといった強豪国を破ってかなりいい線まで行っていたのに、クロアチアとの対戦で負けてしまったのは残念であった。一方、フランスチームはモロッコを破り決勝戦に進出することが決定した。折しもフランスでは、十一月三十日、バゲットがユネスコの無形文化遺産として登録された。正直に言うと、私はあまりサッカーに興味がないので、個人的にはバゲットのニュースの方が印象的だった。
「でもそのせいでバゲットが値上がりしたけどね」とアランは非常に散文的な感想を述べた。なるほど、物事にはいい面と悪い面があるようだ。

クリームチーズと蜂蜜で。焼きたてが一番おいしい。


 十二月八日、リヨン及び近郊の街で光の祭典(fête des Lumières) が祝われた。これは疫病から市民を救った聖母マリアに祈りを捧げる日とされており、人々は窓辺にろうそくを灯し、感謝の意を表す。以前は宗教的な色合いが強かったそうだが、一九九九年からリヨンで始まったイルミネーション・ショーは、さながらディズニーランドのエレクトリカルパレードのように多くの観光客を惹きつけている。二年ほど前からこのちいさな街に引っ越してきた私にとって、リヨンに行くのは残念ながら難しくなってしまった。リヨン行きのバスが一日に三本しかないので、夜から始まるショーを観るには誰かの家に泊めてもらうしかない。おまけにアランも私も運転免許を持っていないので、光の祭典を泣く泣く断念した。

ろうそくの光がきれい。


 しかし、ここタラールでも、小さな、とても小さなお祭りが行われた。寒いから家にいるというアランを残し、私はひとりで出かけて行った。近頃では夕方五時半になると真っ暗になる。おまけに躰の芯に染み入るような寒さである。正直に言うと、アランの待つ居心地のいい部屋にコーヒーでも飲みに戻ろうかと一瞬思った。しかし、教会のあたたかな光や、ライトアップされた街の美しさが私を惹きつけた。


小さな小さなクリスマスツリー

 クリスマス前の街はどこか魔法めいている。ダンスパーティーに出かける娘たちのようにどの店も美しく装飾され、イルミネーションが星のように広場を照らしている。散歩のついでに立ち寄る教会は、いつもなら人気がなくがらんとしているのに、その日はミサが行われていた。重い扉を押して、私は堂内にそっと身を滑らせた。明るい光に照らされた祭壇で神父が説教を述べているところだった。外国人の私が何の予約もなくふらりと立ち寄ったことに、誰も何も言わなかった。フランスの教会は、冠婚葬祭の場を除き、いつでもどんな人でも受け入れてくれる。その懐の広さに感銘を受ける。ミサはちょうど終盤に差し掛かったころらしかった。オレンジ色のTシャツを身に着けたボランティアらしき若者たちに、神父はあるミッションを与えた。それは、これから街で出逢う見知らぬ人たちに「良い晩を過ごしてください」とメッセージを告げることだった。なんて素敵なミッションだろう。こうして出口に向かう若者たちと一緒に、私も外へ出た。 

サン・マドレーヌ教会


 教会から外に出ると、ショーが行われていた。妖精のような美しい白い衣装をまとった女性たちが、不思議な踊りを踊っている。その中の何人かはきっと竹馬に乗っているのであろう、三メートルほどもありそうな巨人と化している。ふだんは静かなこの街にこんなに住民がいたのかと思うほどたくさんの人々が通りにあふれ、携帯電話を片手にショーを観ようと押し寄せてくる。妖精たちはくるくると踊りながら街中を練り歩くものだから、自然に私もその後を追う形になった。プロのカメラマンらしき男性もいて、彼女たちの踊りをベストアングルでフィルムに収めようと奔走している。そこへ、サンタクロースを乗せた荷車が現れた。白い付け髭にまっ赤な衣装というお馴染みの恰好だ。サンタクロースは住民たちに祝福の言葉を告げ、荷車に乗って去っていった。

やっぱりこの人がいないと始まらない。


 ショーが終わってからも、夢のつづきを探そうとする子どものように、人々はまだ街に残っていた。クレープの出店が出ており、たくさんの人々が列を成していた。すこし迷ったけれど、アランと私のためにマロンクリームのクレープを買うことにした。
 帰宅すると、アランが出迎えてくれた。
「おかえり。寒かっただろう。楽しかった?」
「とても楽しかったわ。サンタクロースもいたしね。ほんとうに素敵だった。これ、おみやげ」
アランはクレープを気に入ってくれたようだった。
「サンタクロースか。そりゃ、いいね。君は何歳くらいまで信じていた?」
「そうね、十二歳くらいまでかな」
「ほんとうに?それはずいぶんと大きくなるまで信じていたんだね。僕なんか、八歳の頃に街中のデパートにサンタクロースがいるのを見てから疑い始めたけど。サンタクロースの偽物がいるのかってね」
そして私たちは大いに笑った。そういえば、今年四歳になったばかりの甥っこはまだサンタクロースを信じているのだろうかと、ふと思った。

キャンドルの光があると、一気にクリスマスらしくなる(気がする)。

 いずれ取り上げられる夢なら、なぜ信じる必要があるのだろうと思ったことがある。サンタクロースを筆頭として、「夢」というやつは、単なる優しい嘘なのではないか。いや、もっというと商業的に価値のある嘘だ。世界の仕組みを知らない子どもたちにとって、クリスマス戦略が世界的にものすごい金銭価値を持つものだなどと言っても信じられないだろう。
 それでも、クリスマスの朝のあの魔法のような気持ちが無駄なものだったと思いたくはない。サンタクロースという、目に見えない誰かが、こっそりと願いを叶えてくれるのだ。大人になってサンタクロースを信じなくなっても、クリスマスの間だけ、ちょっと魔法を思い出してもいいのではないだろうか。その日ばかりは、きっとどんなに深い闇も、悲しみも、私たちを打ちのめすことはないだろう。


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